週刊 奥の院 6.9

■ 金子兜太 『荒凡夫 一茶』 白水社 2000円+税
「あらぼんぷ」と読む。
 戦地から戻り日銀に復職。福島、神戸、長崎と転勤。神戸時代に将来の俳句専念を決めたそうだ。
 神戸時代の俳句。
 もまれ漂う湾口の筵(むしろ)夜の造船 
 朝はじまる海へ突込む鷗の死

 東京勤務。世は高度成長時代。埼玉県熊谷市に転居。  
 

 私が四十八歳のその年は、戦後二十二年の歳月が経っています。二十二年という歳月が、私を土の上に定住させるようにしていた、と言えます。そのことを、これまで私は非常に乱雑に、こんな言い方で表現してきました。
「戦後の二十二年間、私は社会というものを見つめてきた。しかし、その社会を構成している人間が、非常に当てにならないということを感じ出した。人間の存在というのは、どういうことなのだろう。その存在から見直すことをしないといけないのではないか」と。
 人間を「社会の中の存在」と考えていた。社会の枠組みを外して人間そのものを見ないといけないことに気づく。俳句の先輩たちを見つめてみようと、一茶、山頭火、放哉ら、漂泊者・放浪者といわれる彼らの生きざまを探る。欲にとらわれること、ナイーブな感性=生きもの感覚。
 この両方があるから人間は何とか生きていられるのではないか、と考えるようになりました。それが人間の生の姿ではないか、そのことを見定めるために、とくに小林一茶のことを、さらに深く掘り下げたいと思うようになったのです。

 一茶は六十歳になったとき、「まん六の春と成りけり門の雪」という俳句を作り、自分のことを「荒凡夫」と、阿弥陀如来に向けて書いた。
 

 一茶は苦労した人だから「残りの人生を、愚のままに生きたいんだよ。如来様、頼みますよ」と言うのも自然なことだろう、とは思いましたが、それ以上に感じたことがありました。つまり、もっと根本的に、人間は本能のままに生きることがいちばん幸せだ。一茶はそのことを「荒凡夫」という言い方で表現しているんだ、ということです。やはり苦労してきた人間だから、本能のまま、欲のままに生きることがもっとも幸せなのだ、というポイントとなる根底に気づいている。そう思ったのです。

 一茶は生涯で2万の俳句を作ったそう(芭蕉が2〜3000)。兜太は一茶の俳句を読んでいくにつれ、一茶を「荒凡夫」として生かしている“生きもの感覚”を理解した。
 

 一茶がそんなに多くの俳句を作った理由は、彼の本能が美しいものに触れていくときの救いとでも言うのでしょうか、句作がもつ「救い」のような働きが大きかったからではないか、と思います。……俳句を作ることによって「美しい」世界に触れ、そのことで自分を救おう、支えようとしていたのではないか。……

 一茶49歳の作品。
 花げしのふはつくやうな前歯哉 
 歯が揺らいで、舌で押して遊んでいる。歯の感触がけしの花びらのようだと。この感覚の働きを兜太は“生きもの感覚”と言う。
 自らの人生をたどりながら、「荒凡夫 一茶」の魅力を語る。
 6・4から「朝日」夕刊の「人生の贈りもの」に登場。6・7にあった兜太の句。
 長寿の母うんこのように我を産みぬ 
 まさに“生きもの感覚”

 カバー図版:一茶「賀六十」自画賛(柿衞文庫) 
 装幀:菊地信義 
(平野)