週刊 奥の院 6.10

■ 鹿島茂 『幸福の条件 新道徳論』 潮出版社 1300円+税 
『パンプキン』連載(08・4月号〜12・5月号)。
「道徳という言葉ほど自分にふさわしくないものはないと感じていますし、私のどこをどう叩いても、道徳のドの字もこぼれる可能性はありません」

 先進国が「貧困(飢餓)」から解放されてしまって、「貧困を想像力の核にすえた旧道徳は、多数派の心には全く働きかけることがない」。
 旧来の「道徳」ではなく「新道徳」を考える。連載時期は、リーマンショック東日本大震災という大事件があり、私たちの考え方も変更せざるをえない。著者は、マスコミなどの反応が「禁欲主義」に向かっていることに疑問を持つ。
 そもそも「道徳」とは? と問う。
「情けは人のためならず」=共生のルールに基づくと考える。「欲得を捨てる」ことではなく、「迂回的な欲得ずく」である。「欲得ずく」を説明するのに、バーゲン理論(バーゲンセールで安くなってラッキーと思っても売り切れやサイズがなかったりする。ほしいものは正価で買っておけ)から結婚の伴侶選びに展開する。
「得をしようと狙いすぎると、チャンスを逃す。チャンスは、少し損するかなと思ったときにすでに来ている」
「欲得ずく」とは「自己利益の最大化」。こう聞くと、「道徳」がナマナマしくなるが、著者の考えはこう。

「大きく貪欲である」のではなく、「小さく貪欲である」ことが、最終的には自己利益の最大化に通じるのだから、その少しだけ貪欲を我慢した分を「公(おおやけ)」の分として回すことにしましょう、そのほうが社会がスムースに動くのだから。

「自己利益の最大化」は金のからんだ商行為においては存分に発揮される。その商行為でのモラルの危機がある。「お客様は神様」的状況=「金さえ払えばふんぞり返ってもいい!」という思い込みが、商行為ではない「教育」にまで押し寄せている。モンスターと呼ばれる保護者や児童などは「金の全能性」によるもの。教育の荒廃とか格差社会も同じ。
 時代・風土によって道徳やマナーは違うが、永遠に変らない「道徳」「作法」がある。それは「育児」。「人間というものは、親に養ってもらわないと生きていけない期間が他の動物に比べて異常に長い」。フロイトが「寄る辺ない状態」と呼ぶこの期間が人間にとって重要であることを、社会が正しく理解していたから、「親が自分の我がままや欲望を犠牲にして、子どもの養育を行わなければならないという道徳が確立したのです」。次世代が育たないと社会そのものが崩壊する。現代日本出生率低下や単身者社会は、物質文明発達と人間の欲望が発展の原動力になる社会が行き着いた姿。「面倒臭いことは嫌い」と。
 法と道徳。世界恐慌での「賢い貪欲」敗北、著者が名づけるところの「陽ドーダと陰ドーダ」。3・11後の節電を経験しての贅沢=「小さな悪」と、経済全体の「大きな善」……、現代社会の現実を見ながら、個人と社会の関係を考える。
 私たちは「道徳」と聞くと「義務」「禁欲」と思い浮かべてしまう。「義務」は「損」ではなくて本当は「得」をするものだということ、それはものすごく「迂回」してつながっているものと理解しなければならない。
「禁欲」でも「貪欲」でもなく、
【非・禁欲、非・貪欲の「腹八分目の貪欲」主義でいくしかない】という、とりあえずの結論を提示してくれる。
 装丁に使われているイラストは著者のコレクションから。ジョルジュ・バルビエ(フランス、1882〜1932)「現代の幸福」。モード雑誌、映画・舞台の衣裳デザインで活躍。
(平野)