週刊 奥の院 8.19

■ 金郄謙二 『疎開した四〇万冊の図書』 幻戯書房 2400円+税 
 1955年東京都江戸川区生まれ、映画監督。元外航船ケミカルタンカー船員。2012年ドキュメンタリー映画「40万冊の図書」を自主制作。
http://tokyo-toshokan.net/00000878.htm
 太平洋戦争末期、旧都立日比谷図書館(現・千代田区立日比谷図書文化館)の蔵書およそ40万冊を戦禍から疎開させた。

……史上空前の大移動。一年におよぶ疎開は過酷を極め、図書館員をはじめ都立一中(現日比谷高校)や高輪商業(現高輪高校)の学生たちが、大八車を押し、あるいはリュックを背負って、約五〇キロ離れた奥多摩の多西村(たさいむら、現あきる野市)や埼玉県志紀町(現志木市)などに何度も足を運んだ。その後、昭和二〇年五月二五日、アメリカ軍が投下したおびただしい焼夷弾日比谷図書館は全焼する。もし、仮に日比谷図書館の蔵書四〇万冊が疎開していなければ、日本文化の多くが失われていたはずである。
 戦争は人々に直接的なダメージを与えるだけでなく、民族の尊厳や文化をも根こそぎ破壊する。本を燃やすことは、人間を殺傷することとどれほどの違いがあるのか。自分の命を守り生きるのが精一杯だった戦時下で、多くの人がつらく過酷な体験をしながら文化を守った。

 40万冊の疎開、どれくらいの規模か? 本書で例をあげているのは現在の都内の公立図書館の蔵書ランキング。1位は都立中央図書館(176万冊超)、第17位が三鷹図書館(40万冊)。
 神戸市だと、中央図書館が78万冊、他9館が6万から11万冊、市全体で172万冊。
 上野の帝国図書館は蔵書約70万冊で、当時日本一の図書館。関東大震災で大きな被害を受けた。昭和18年10月、貴重書の疎開開始、場所は長野県立図書館。約13万冊が輸送された。
 日比谷図書館疎開第一陣は昭和19年1月末。7月、館長に中田邦造を迎え本格的に疎開開始。蔵書だけではなく、民間の貴重資料を買い上げ疎開させた。買い上げ図書の選定にあたったのは中田と反町茂雄、彼の人脈で古書店業者が協力。江戸時代刊行本「加賀文庫」、東洋史「市村文庫」、中国文学「実藤文庫」、哲学「井上文庫」、諸橋轍次の「諸橋文庫」など計23万冊超。
 動員された一中生の証言。昭和20年5月参加。

――何人くらいで運んだんですか?
(阿部)二〇名ちょっとくらいです。
――期間は?
(阿部)八月には終戦でしょ。だから五月から始まってね、四ヶ月くらいですよ。

 トラックに2、3人分乗、トラックが出ないときは10キロのリュックを背負って電車。
 民間蔵書買い上げについて館員たちの証言。

(秋岡)……中田さんはどんどん買い上げて、それで中田さんは哲学出身なんです。井上哲次郎さんのコレクションを三〇万円で買う、桑木厳翼、それから西田幾太郎さんのコレクション……
(細谷)(6月末、葉山の谷邨文庫を受け取りに行った帰路)葉山を夕刻出発したが午後八時頃川崎の焼野にさしかかったところ木炭車が故障……二人の小使を帰し私は運転手と二人でその車でその場で野宿して待ちました。迎えの自動車は翌日昼頃やっと到着……

 翌朝、敵機襲来の中、埼玉県志紀町まで運んだ。
 中田邦造(1897〜1956)は滋賀県出身。八高から京大哲学科・西田幾太郎門下。石川県立図書館長時代に反戦的講演で特高に逮捕された。昭和15年東京帝大図書館勤務。論文「文献の防護対策」で日比谷図書館に推薦された。
 東京は昭和19年11月から106回空襲された。20年3月、両国、浅草、本所、東駒形の図書館が全焼。4月西巣鴨、5月日比谷、麹町、三田、渋谷他7館。日比谷図書館は20万冊焼失。

 明治四一(一九〇八)年一一月一六日に日比谷公園に開館した日比谷図書館の建物は、約二〇万冊の蔵書とともに燃えてなくなった。日比谷図書館は、三七年という短い年月に終止符を打ち、この世から消え去った。


◇ うみふみ書店日記
 8月18日 日曜
 宅急便でこんなん来ました〜。

 神保町の喫茶店&カフェのPR紙「ラドリオかわら版」第26号。B4判、裏側は、東京堂書店の「軍艦棚」。『本屋図鑑」(夏葉社)得地さんのイラスト。折ればブックカバーに変身。

(平野)
 プレジデント社のWeb連載、「本屋と旅する男――『本屋図鑑』裏話」(夏葉社Sさん)で【海】を取り上げてくださっている。ありがとう。
http://president.jp/articles/-/10317