週刊 奥の院 6.24

■ 文藝別冊『総特集 向田邦子  脚本家と作家の間で』 河出書房新社 1200円+税
 向田邦子(1929〜81)の小説家としての活動は1年半しかなかったと編集後記で知る。

○ オマージュ(向田のエッセイと同じタイトルで) 
角田光代「手袋をさがす」
小池真理子「父の詫び状」
○ 単行本未収録エッセイ
私の近況  「エリザベス」のおはなし  酒呑みのまよい箸  男性鑑賞法  電話のある部屋――“声”で見破られる  大きさ、手ごわさが、見えてきました
○ 発掘! 高校生向け指南エッセイ  印象づける自己紹介 他
○ 単行本未収録対談
×阿久悠 “ケチの話”と“ナツメロ”は猥談?
×森繁久彌 偉大なる雑種・強運
山田太一桃井かおり
○ 発掘インタビュー 
「平凡な日々の営みをドラマに結実する名手」(『MORE』1980.8月号)
……

 向田の「手袋をさがす」は、22歳の思い出。戦後間もなく、教育映画製作会社勤務。ひと冬手袋なしですごした。貧しいけれど、惨めったらしく見られるのは嫌、気に入らないものをはめるくらいなら、はめないほうがいい。まわりの人は冗談と思っていた。ある日、上司が忠告する。
「君のいまやっていることは、ひょっとしたら手袋だけの問題ではないかもしれないねえ。……男ならいい。だが女はいけない。そんなことでは女の幸せを取り逃がすよ。……」
 素直にハイと言えない。苛立っていた。若くて健康、家族に恵まれ、暮らしは安定、縁談だってある。……

 にもかかわらず、私は毎日が本当にたのしくありませんでした。
 私は何をしたいのか。
 私は何に向いているのか。
 なにをどうしたらいいのか、どうしたらさしあたって不満は消えるのか、それさえもはっきりしないままに、ただ漠然と、今のままではいやだ、何かしっくりしない、と身に過ぎる見果てぬ夢と、爪先き立ちしてもなお手のとどかない現実に腹を立てていたのです。たしかに手袋は手袋だけのことではありませんでした。
 ないものねだりの高のぞみが私のイヤな性格なら、とことん、そのイヤなところとつきあってみよう。そう決めたのです。(その晩、電車の中で決めた)
 あしたから、今まで、私は自分の性格の中で、ああいやだ、これだけは直さなくてはいけないぞと思っていることをためしにみんなやってみよう。……

 求人欄に目を通し「編集部員求ム」に応募し採用された。洋画専門雜誌。しかし、他人の作ったものを紹介したり、批評をのせる仕事にあきたらなく、ラジオの原稿、週刊誌ライターも。

 もっと面白いことはないか。
 もっと、もっと――好奇心だけで、あとはおなかをすかせた狼のようにうろうろと歩き廻った二十代でした。何しろ、身から出たサビで、三つの会社から月給をもらっていたこともあり、うっかりすると眠る間もろくにありませんでしたが、そんな緊張感がよかったのか、幸い病気もせず、あとは、水が納まるところに納まって川になるように(自分ではそんな感じでした)勤めをやめ、ラジオをやめ、自分としては一番面白そうなテレビドラマ一本にしぼって、今七年になります。
 二十二歳の冬のあの晩――。


 田辺聖子が、向田の事故の知らせを聞いた時のこと。「向田さんのこと」週刊文春1981年9月10日号)。

 八月二十二日の夕方、私は神戸三宮の書店でサイン会をしていた。四時半ごろ、突然、毎日テレビのカメラが眼の前に廻り出して、「向田邦子さんが遭難されました。ちょっとお話を」と私の口元にマイクが突き出された。
「えーっ」
 と私は絶句した。……


 さんちかの「コーべブックス」。私はこの話を当時同店重役だったM(現在三宮ブックス社長)から直接聞いた。
みずのわ出版HP「本屋漂流記」第12回 http://www.mizunowa.com/soushin/honya.html#omeme
 Mの話では、「田辺と向田は大親友」。だから、テレビが田辺のスケジュールを調べて追いかけてきた。
 田辺によれば、「お目にかかったのは、三、四度くらい、それもここ、二、三ヵ月のあいだ……」。
 初対面では、向田が古典文学のドラマ化で田辺作品も参考にしたが手違いで田辺に連絡できなかったことを謝罪。
 向田直木賞受賞後、銀座のバーで遭遇し、「かわうそ」の女主人公について田辺が「私にそっくり」と言えば、向田は「あれは私」と言い合った。
 短くても、濃い交わりだったのでしょう。

(平野)