週刊 奥の院 3.3
■ 大谷昭宏 『事件記者という生き方』 平凡社 1600円+税
1945年東京生まれ。68年読売新聞大阪本社入社。徳島支局を経て社会部記者一筋、「黒田軍団」。87年退社、黒田清と「黒田ジャーナル」設立。2000年独立。
1 新聞記者として生きる 早大ジャーナリズム研究会 なぜ大阪読売だったのか 事件記者への道を作ってくれた人
2 サツまわり 好きな町、釜が崎 裏社会の掟 大阪府警捜査一課担当
3 忘れ得ぬ事件 19歳OL殺人事件 三菱銀行人質事件 グリコ・森永事件 朝日新聞阪神支局襲撃事件 ……
4 読売新聞大阪社会部 黒田清 黒田軍団 本田靖春
5 時代と切り結ぶ 活動の場をテレビに メディアと警察、検察
「私は生まれたときから新聞記者になろうと思っていた」
小学3年生で、ガリ版を切って新聞を作っていた。学級新聞ではない。
家で読んだ新聞記事の中から興味があるものを抜き出して、自分なりの解釈をつけて見出しをつけて新聞に載せ、みんなに配って担任の女性教師や親をあきれさせていた。なにしろ、そこには殺人事件だの幼女誘拐事件なんかが載っている。……
家庭環境は、父親洋服職人、母親専業主婦。
目標を決めて一本道。
なぜ「大阪読売」だったのか?
まず、いわゆる「事件記者」志望。政治部や外報部ではない。当時、社会部が強い「読売」を選んだ。それから、「朝日」「毎日」は学業重視らしい。「読売」は一発勝負の試験と面接。さらに、全国紙は入社試験が同日だった。掛け持ち受験ができないのだが、「読売」は大阪を別会社にしていて、東京と試験日が別、しかも交通費支給。
そう、「ものの見事に東京読売はすべった」。
ジャーナリスト生活45年。メディアは「桃太郎」でなければならないと言う。
♪気はやさしくて力持ち〜(田辺友三郎作詞)の桃太郎。
メディアは強大な力を持っている。そしてこれからも持ち続けるべきである。その力がいささかも削がれることがあってはならない。だが、それと同時に、その底流に気のやさしさがなければならない。やさしさを失った力はときとして、権力になり、あるいはだれも押しとどめることのできない暴力に変えてしまう危険性さえある。……
相手の立場になって考えるやさしさを持つ若者に、ジャーナリズムの世界に飛び込んできてほしいと訴える。
(平野)