週刊 奥の院 2.20
■ 平野芳信 『食べる日本近現代文学史』 光文社新書 740円+税
著者は1954年兵庫県生まれ。山口大学人文学部教授、日本近現代文学専攻。著書、『村上春樹と《最初の夫の死ぬ物語》』(翰林書房)、『韓流百年の日本語文学』(人文書院)他。
《食》の観点から日本の近現代文学を見直す。
食べることと《文学》 食べることと《性》 食べることと《女》 食べることと《家族》 食べることと《文化》 食べることと《病気》 食べることと《現代》
「まえがき」より。
我々人間にとって「衣・食・住」は生きていく上でなくてはならぬ三大要素だが、、そのなかでも「食」つまり「食べること」は、他の二つの要素よりも切実な問題ではないかと思われる。極端な話をすれば、着るものや住むところがなくても、とりあえず生きてはいけるが、食べるものがなければ生存それ自体が危うくなるからである。……
それに対して、我々人間にとって「小説」はいったいどれだけ生存する意味において、その必要性をもつのであろうか。一見、「食」が我々人間にとっての生存と相即不離の関係にあるのとは対極に、「小説」を初めとするいわゆる芸術は位置するように思われる。
しかし、実際はそうでもないように思われる。食べることと同列ではないまでも、人間が生きていく上で、「物語」もまたきわめて重要な意味をもっているということは想像に難くない。……
著者自身が、「余所行きの気取った、眉唾なまえがき」と。
ここまで書いて、本論を先に仕上げて、改めて「まえがき」の続きを書いた。
学生の論文の手助けをしてきて、一つだけいえること。
「面白い卒論はある種の自己告白であり、自己分析の書になっている」
切実な深い奥底にまで達している文章が読み手の心を捉える。
本書も、
「出自やら何やらをすべてとはいかないまでも、かなりの程度披瀝し解析することになるのか、あるいは期せずしてそうなってしまうのか……」
たとえば第二章【食べることと《性》】。
「筆者は昭和二十年代生まれなのだが、そのお陰でかろうじて妻帯者の列に身を連ねることができているように思える」
5年遅れていたら結婚できていたかどうか怪しい、人として生まれた以上結婚せねばならないと刷り込みされた世代、だと認識。
日本人の結婚観の変貌というか、バブルが崩壊して低迷する経済に呼応するように晩婚化が進んでいる。その状況を知りながら(早く生まれただけで結婚できた者が)、あえて、「お見合い」や「合コン」未経験であることを告白する。
なぜこんなことを話の枕にしたかというと「見合い」にしろ「合コン」にしろ、男女の出会いの場には、なぜ「食べ物」や「酒」が介在しているのかという素朴な疑問を提示したいからに他ならない。……
取り上げる作品は、川上弘美『センセイの鞄』。
その書き出し、「わたし」と「センセイ」の再開場面は、「書けそうでいてなかなか書けない達意の筆」。
「肩の力が抜けながらも酒の肴の好みがここまで一致する二人の姿を描くことで、この物語の展開を端的に示しているのだ」
その肴。
「まぐろ納豆。蓮根のきんぴら。塩らっきょう」カウンターに座りざまにわたしが頼むのとほぼ同時に隣の背筋のご老体も、
「塩らっきょ。きんぴら蓮根。まぐろ納豆」と頼んだ。趣味の似たひとだと眺めると、向こうも眺めてきた。どこかでこの顔はと、迷っているうちに、センセイの方から、
「大町ツキコさんですね」と口を開いた。驚いて頷くと、
「ときどきこの店でお見かけしているんですよ、キミのことは」センセイはつづけた。
谷崎『瘋癲老人日記』、向田邦子『三枚肉』と比較しながら、「性」と「食」というテーマを考える。
(平野)