週刊 奥の院 12.29

 第15回 海文堂の古本市 2012・12・28〜2013.1.9 (1月1日〜2日休業)
2Fギャラリースペース
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■ 津村節子 『夫婦の散歩道』 河出書房新社 1500円+税
 吉村昭(1927〜2006)との結婚は1953年。二人の散歩は自宅近くの公園や玉川上水べり。仕事が忙しくなり、旅行といっても取材、二人で歩くことはなくなる。吉村が癌を発症して退院、再入院するまでのわずかの間、また上水べりを散歩した。
 

 吉村との出会いのきっかけは、俳句と言ってもよいかもしれない。 
 昭和二十五年、学習院短期大学部が創設されたことを新聞広告で知り、旧制女学校卒業だった私は高等学校卒業の認定試験を受けて、翌年国文科に入学した。国文科主任教授の岩田九郎先生の「奥の細道」を受講していたが、ある日先生は大層ご機嫌の様子で、教室にはいって来られるなり黒板に、
  今日もまた 桜の中の遅刻かな
 と書かれ、大学部で授業に遅れて来た学生が、教壇の机の上にこの句を書いた紙を置いて行きましてね、と言われた。そのまま授業は続けられたが、終わってから、図々しい学生もいたものね、と私たちは呆れながら笑った。その図々しい学生が吉村昭であることは、あとでわかった。

 津村は文芸部を作り教授に協力してもらうが、できた雑誌に満足できなかった。教授に大学部の「学習院文藝」に入りたいと相談すると、委員長の吉村を紹介された。
 

 新制大学になったばかりの校舎には文芸部の部室などなく、放課後の教室を使っていたが、呼び出してもらった委員長は、蛇腹のついた海軍士官のような制服を着ているものの、とても学生とは思えぬ年齢の頬の削げた男であった。

 吉村は中学時代に結核旧制高校時に手術。進学が遅れたが、部員の中では最年長。
 

 毎朝ベッドの中で、今日はどこも痛くなくて、幸せだなあ、と吉村は言っていた。痛くないことがあたりまえの私は、どんなにひどい痛みだったのだろうと、思う。……
(胸部成形手術を受けた)
……局所麻酔のみで、左胸部の肋骨五本を切除したのだが、パチン、パチンと大きな音がして、傍らにいたふとった看護婦が痛いと言うとひっぱたいたんだ。手術の痛みを、ひっぱたいた痛みにすりかえようとしたんだが、おれは、イタクナイ! イタクナイ! と叫んで、看護婦は叩かなかったんだよとよく笑いながら話していた。

 当時結核は死病。家には入れてもらえず、10坪ほどの社宅で弟とお手伝いの少女が献身的に看病した。その弟は癌で亡くなる。自分が看病されたことも、弟のことも小説にしている。
 吉村がなくなった後も、津村はそのけはいを感じていたそう。
 

 そのけはいが失せたのは、いつの頃からだったろう。けはいと言っても、建て替えてしまった家の中ではなく、夕ぐれ時に公園の柵に腰をかけていたり、百貨店で私が買物をしている間待っていたエレベーターわきの椅子にかけていたり、かれが入院していた病院の歯科へ治療に行ったときに廊下ですれ違ったりしたのである。
(遺言通り1年間遺骨を机の上に置き、一周忌に納骨した)
……私は家を壊すことに熱中した。どこにもかしこにもかれがいたからだった。……

 吉村の死後、未発表の短篇やエッセイをまとめたりで、4年4ヵ月かれの仕事に明け暮れた。生前は互いの作品を読まないことにしていた。なくなってから夫の作品を読む。
 

 読む度にゆるぎない自分の世界を構築している作品に圧倒され、夫は夫でなくなり、作家になってしまった。夫のけはいがなくなったのは、かれの死後続いている事務処理と、これまで読まなかった作品を読み続けたためである。

 北海道の文学展でのチラシが届く。いままで見たことのない写真。
 

 後頭部の髪が逆立ち、寒そうに衿を立てているコートに雪が吹きつけている。眼鏡の奥の前方を見つめている眼は、これから取りかかる対象を見定めるひたむきさが表われている。

 昭和49年の取材旅行のものらしい。引揚船「小笠原丸」――潜水艦に攻撃され沈没――取材。吉村の作品への打ち込みぶりは有名だが、取材後、脱疽や中耳炎悪化でたびたび入院した。

……そんなにまでして書きたかったのか、と胸が詰まった。
 私の中で作家になってしまい、けはいもなくなった夫の夢を、その夜見た。

 装幀・中島かほる 絵・「菊寿堂いせ辰」の千代紙
(平野)
 すみません、古本市始まっています。