週刊 奥の院 12.28

■ 綿矢りさ 『しょうがの味は熱い』 文藝春秋 1200円+税 
 奈世が絃(ゆずる)と同棲を始めたのは大学生の時。彼は電子機器の営業マン。几帳面(神経質・細かすぎる)。食事は野菜中心、薄味、焼き魚と蒸した野菜とパン。奈世は醤油とご飯が必要。
「主菜が同じでも主食が違うと、全然違うものを食べてるみたい」
そういうカップル。
 彼は明日のために眠る。奈世は今日を終わらせるために眠る。彼が起きている間にできなかった肌の手入れをしながら、部屋を出ようと思う。身体を温めるためハーブティーにしょうがを混ぜる。しょうがの味は熱い。ベッドに入ると、彼が言った。
「家賃。半分はらって……」

 一緒に住めるなら、お金なんてどうってことない、ちゃんと払う。
 ここにずっと、いっしょに住むんだろ。耳に残った絃の言葉が、しょうがより私を暖める。

 愛し合って一緒に住んでいるが、その先に結婚はあるのか? 同棲して3年過ぎて、奈世は結婚話を持ち出す。彼にはその気がない。奈世は実家に帰る。彼が追いかけてきてプロポーズ。しかし、奈世の家族は反対。彼の気持ちは揺れ、奈世も入籍を見合わせる。ふたりの部屋に戻る。駅までのバス。

……
 絃の顔を見上げると、彼は浮かない表情をしていて、私が見つめていることにも気づかずに窓の外を見つめています。もし絃が私の視線に敏感で、すぐ気づくような人であれば、私は彼を好きになっていなかったかもしれない。絡み合ってほしいときに絡まない視線、その胸の締めつけられる切なさを愛したことも事実なのです。
 結婚とも愛ともまったく関係のないところに、恋人の体温とバスの揺れの心地良さは存在していました。機能は終わった、明日はまだ来ない。だからとりあえず、今日だけ。いまだけ。絃といて、何年付き合ってきたかという過去も、いつ結婚するのかとあせる未来も考えずにいられたのは、付き合い始めたころしかありませんでした。でもいまの¥はあのころに帰ろう。ひさしぶりにいまこのひとときにだけひたっていると、身体じゅうがほぐれて眠くなり、自然にまぶたが、あまく重く瞳にのしかかります。

 二人がそれでいいなら、いい。
 そして、このまま、
今週のもっと奥まで〜
 ふたりの愛のシーン

「ねえ、なにか言うことないの」
「どうしたの急に」
「なにかしゃべることないかな、と思って。一日の終わりに」
(絃はムニャムニャ声で答える)
「ちゃんと答えてよ。なんか、どうでもいいみたい」
……
 私が身体半分を彼の方に乗っけて彼の胸の上に顎を置き、彼の顔を正面からじっと眺めても、彼は視線を移すこともなく腕で頭を支えたまま、テレビを見続けている。手はほとんど無意識に私の頭をなでている。絃が家にいるときだけかけている太い縁の眼鏡をはずし、鼻筋の脇に付いている眼鏡のくぼみに口づけると、かすかに、くすぐったそうに鼻を鳴らした。もう少しの予感がした。CMに入った途端音量が大きくなったテレビを、絃がリモコンで消す。
 絃は起き上がり壁際に沿ってベッドの上に座り、おいでと合図した。私は絃のあぐらをかいた脚のなかにうしろむきで腰を下ろして、絃が手と足で作り出す空間にしっかりと収まる。絃の腕がうしろからまわってきて肩を抱くと、抱きしめられているというより、暖かい木枠のなかに収まった、という感じがする。ここが私の居場所。もし絃の心が冷めきっていたとしても、彼の身体は温かい。
 ただ髪を梳かすのではなく、ときどき持ち上げる彼の動作が、本当に好きだ。両手の間を少しずつ広げていくと、一房ずつ彼の指の隙間からこぼれて、はさはさと髪が肩に落ちる音が聞こえる。後をふりむくと絃の舌が柔らかく絡みついてきて、唇から身体全体に安心が広がる。だんだん夢中になってきた絃を顎を上げて受けとめているうちに私の喉は斜めにまっすぐ伸びた。……
 夕食のとき、十月に入ってから段々寒くなってきたねと言い合いながら縮こまっていたはずの私たちは、身につけているもの全てを取った途端全然寒くなくなり、お互いの身体を追いかけてのびのびと動く。唇をお互いの身体につけ合っていると、肌がうぞうぞしてきて、抱き合うだけで幸せだったはずなのに、次の段階へ上がるきっかけを、彼の首筋やわき腹や腕の裏に探してしまう。絃は本当に熱心にわたしの身体のやわらかさを味わう。私はそれを見ている。弦は視線に気づくと動作を止めたり、私の視界をふさごうと唇を重ねてきたりする。でも私は絃の鼻先が私の肌の谷間に埋まるのを見るのをやめられない。いいから、見つめていたい。……

(平野)