週刊 奥の院 11.14

■ 馬場マコト 『従軍歌謡慰問団』 白水社 2200円+税 
 著者の本業は広告マン。
目次
1 藤山一郎と「影を慕いて」  2 東海林太郎と「国境の町」  3 古賀政男と「青い背広」  4 東海林太郎と「麦と兵隊」  5 西條八十と「支那の夜」  6 藤山一郎と「英国東洋艦隊壊滅」  7 古関裕而と「大南方軍の歌」  8 藤山一郎と「濠州進撃の歌」  9 西條八十と「比島決戦の歌」  10 それぞれの玉音放送  11 藤山一郎と「インドネシア・ラヤ」  12 それぞれの戦後

 時代はラジオ放送、そしてレコード。1926年、ビクターはフランス帰りの早稲田仏文教授・西條八十に作詞を依頼、曲は中山晋平で「東京行進曲」。25万枚のヒット。歌うは上野音楽学校の学生・佐藤千夜子(ちやこ、校則違反で退学処分)。
「昔恋しい銀座の柳 仇な年増を誰が知ろ……」
 藤山一郎(本名・増永丈夫)が歌謡曲の世界に入ったのは上野音楽学校在学中。「上野が生んだ天才」といわれた逸材。慶應幼稚舎・普通部の歌が制定され、コロムビアでレコード化。同OBの藤山が歌唱。加藤ディレクターは彼に雑用のアルバイトを世話。そしてレコード吹き込み、当然学校に内緒。1年に40曲近くを吹き込んでいる。別名でも。
 加藤は「東京行進曲」を超えるヒットをめざす。31年、古賀政男作曲、島田芳文作詞の「キャンプ小唄」を藤山に歌わせる。古賀の明治大学マンドリンクラブが演奏に参加。
 古賀の得意は抒情的な曲だが、次はもっと明るい歌を作ろうとする。加藤は「酒は涙か溜息か」の詞(高橋掬太郎)を渡す。暗い歌を藤山の明るい歌唱で。
「酒は涙か溜息か こころのうさの 捨てどころ……」
マンドリン藤山一郎の歌唱は、憂鬱さの中に一条の光明がみえるかのように共振した。 
 9月発売と同時に、売れに売れた。
 馬場は歌と時代の動きを重ねる。
 同じ9月、満州事変。
 島田作詞で「丘を越えて」発売。
丘を越えて 行こうよ 真澄の空は 朗らかに晴れて 楽しいこころ……」
 

 藤山一郎はマイクからかなり離れた位置に立った。メリハリをつけ、あくまできれいに明瞭に歌った。声量を落としてはいけなかった。同時に溢れさせないように気を遣いながら、古賀メロディーの青春(はる)を高らかに歌いあげた。
 人々にとってその丘は満洲になった。

 藤山の歌も満洲ものが続く。
 32年満洲国建国。「影を慕いて」(古賀作曲、かつてビクターでレコード化したがすぐに廃盤)。
まぼろしの 影を慕いて 雨の日に 月やるせぬ 我が思い……」
 

 藤山一郎満洲国をまぼろしと歌い上げることで、人々の心の奥深くに届いた。
 歌謡小唄は詞と曲と歌手が、協同し、共鳴し、そして時代と共生して初めて生きる魔物だった。……
 不況にあえぐ日本全体が満洲に打開策を求めた。関東軍は暴走した。古賀政男の人々の心にしみじみと染みるような情緒的な旋律。それは農村の苦しさにあえぎ、都会で失業に苦しむ若者たちの心情だった。それをなんの屈折もないように明るく明確に歌う藤山一郎の歌唱。それはそれでも満洲に希望があると信じようとする人々の、明りだった。古賀政男藤山一郎も時代の渦と交差した。

 
 ポリドール藤田制作部長は「股旅」ものに活路を見出す。詞は佐藤紅緑の弟子・佐藤惣之助、曲は古賀の後輩竹岡信幸。歌唱は、早稲田で経済学を学び満鉄調査部にいた東海林太郎。「赤城の子守唄」。
「やくざ物ですか」と問う東海林に佐藤が説明する。
 「この歌は農民の歌だ。不作でも土地というしがらみの世界に生きざるをえない、農家の次男坊、三男坊の歌だ。その人たちに向かって歌ってくれ。きっと伝わる」
「泣くなよしよし ねんねしな 山の鴉が泣いたとて 泣いちゃいけない ねんねしな……」
 34年1月吹き込み。同じ月、製鉄会社が大合併して日本製鉄設立。鉄は国家管理になった。3月、満洲国皇帝溥儀擁立。
 ビクター、西條・中山の「東京音頭」が大ヒット。
「踊り踊るなら チョイト 東京音頭……」
 満洲事変がもたらした都会の好景気の気分を「チョイト」の一言で語った八十の勝利だった。
 藤田は東海林の次の曲も「満洲しかない」と確信。34年暮れ、活動小屋の楽士・阿部武雄作曲、純粋詩人・大林惇夫作詞、「国境の町」発売。
「橇の鈴さえ 寂しく響く 雪の曠野よ 町の灯よ……」
 太郎の絶唱と、阿部が間奏に入れた鈴の音にうながされるようにして、人々は満洲へ向かった。東海林太郎は、満洲の荒野を切り拓き北進論を推し進める、関東軍の歌う御者となった。 
 
この項続く。
(平野)