週刊 奥の院 11.9
今週のもっと奥まで〜
■ 坂井希久子 『崖っぷちの鞠子』 光文社文庫 590円+税
SMクラブで働きながら小説家を目指したというド根性。恋愛短篇集。
表題作。鞠子は不倫相手だった元上司・成瀬に再会。今は夫のある身ながら、彼の子どもがほしいと思う。
成瀬が気障っぽい動作で隣に並んだ。
「ひと月ぶり」と言って、成瀬は人懐っこい笑みを浮かべた。
細身のパンツに包まれた長い脚を、強調するように組む。鞠子も女性にしては背が高いほうだから、生まれてくる子もきっと長身になるだろう。
「別々の仕事をしてると、予定って案外合わないものだな」
「そりゃそうよ。私だって昔みたいに身軽じゃないんですから」
それとなく家庭があることをにおわせたつもりだった。
鞠子がもはや他の男に属していることを、成瀬はいまだに分かっていない。彼の感覚では、分かれていようが夫がいようが、鞠子はいつまでたっても「俺の女」なのだった。
「忙しいんだな。ま、仕事があるのはいいことさ」
ほら。やっぱり、ちっとも分かっていない。
「今日は、時間があるんだろ?」
成瀬は窺うような目で鞠子を見た。
「そうね、魔法が解けるまでは」
「魔法が解けた後の君も見たいね」
「うわ、そういうの、久しぶり」
鞠子はたまらずくすくす笑った。
(食事を終え、帰り道のタクシー)
あの角を曲げれば、公彦(夫)の待つマンションが見える。そこまできてようやく、成瀬が口を開いた。
「俺は、人妻には手を出さない主義なんだ」
ずるい、と思った。
でも笑ってしまったから、鞠子の負けだ。
「しょうがない人」
ふっ、と肩の力を抜いて、鞠子は運転手に声をかける。
「すみませんが、来た道を戻ってもらえますか」
強引でわがままで、本当は人見知りの激しい子供みたいに小心な成瀬。そういうところが、本当に憎らしかった。
「幸いにも私は人の夫に手を出した経験があるので、こちらから手を出してあげますよ」
成瀬は前を向いたまま何も言わず、重ねていた手を強く握った。
……
家に帰って、夫の寝顔を見たら、愛おしくなる。この人は他人の子でも育ててしまいそうだ。鞠子は焦った。夫を揺り起こして、
「私、あなたの子供を産んであげたいのっ」
なんやっちゅーねん!
(平野)