週刊 奥の院 9.13

■ 松浦理英子 『奇貨』 新潮社 1300円+税
 書名で思い浮かべるのは「奇貨居くべし」という中国故事。辞書にも載っている「史記 呂不韋伝」。商人・呂不韋が人質になっていた子楚を助け、秦の宰相にまでなった。
 大切なものを見つけ活かすということだろう。私、実は、間違って認識していた。変な奴も組織には必要、と。 
 本書の「奇貨」はどう解釈すべきか。
 語り手は男性作家45歳、本田。友達も恋人もいない。前の会社の後輩で10歳下の七島美野とルームシェア。肉体関係なし。彼女はレズビアン。本田は女好きだが、最近は糖尿でもう欲望はない。
 彼女の告白。

 本田さんはわたしのことは女として全然好みではないと思うので気楽に言いますけど、わたしが本田さんに恋愛感情を抱くことは決してありません。それは本田さんの魅力がどうこうという問題じゃなくて、わたしの性的指向の問題です。本田さんには話せると思ったのでお話しておきます。

 本田は彼女に、仕事関係の愚痴や少年時代の教師・同級生への恨み話。彼女は恋愛(レズ)の話。本田は彼女の洗濯物を干すし、夕食の支度もする。彼女もたまに食事を作る。夫婦のようだが、彼女は帰宅が遅いので一緒に食べることはないし、話も二言三言しかないこともある。それでもお互いが満足していた。
 彼女に友人ができる。本田との会話が減る。彼女の愚痴は友人に向けられ、自分の部屋で長電話。彼女に友人ができたことを祝福する気持ちはあるが、自分は「あきらかに二番手以下の友達に成り下がっていた。」
 他の人間関係を充実させようとするができない。彼女を羨ましく思うだけ。彼女たちの会話に興味が募り、ついに盗聴。
 嫉妬? 当然バレて、彼女は部屋を出る決意。

「本田さんがこんなに気持ちの悪い人だとは思わなかった。」
「われながら気持ち悪いと思うよ。」
……
「心から後悔しているよ。きみはおれの数少ない友達だったのに。セックスしなくてもいちばん近づけた相手だし、共有した時間もいちばん長い。おれの勝手な希望だけど、このままずっと一緒にいられたらともひそかに願ってた。」
(恋愛感情はないが、同じ空間にいるだけで体が喜ぶ、皮膚が生き生きする、珍しいヤモリくらいの距離感と)
「これも大袈裟に聞こえるかもしれないけど、おれにとってはきみはそのヤモリ以上に貴重な種なんだ。何としてもとっておきたい奇貨って言えばいいかな。……」

 かけがえのない大切なものを失う。最後の日、彼女の友人を交えて語り合う。本田は理想の男女の別れ方を話す。バカバカしい舞台設定と情けないくらいミジメな男。二人は呆れるが、けっしてバカにはしていない。

……終わりなのか、絶対にもう赦してくれないのか、と訊きたいけれども訊くことができず、私は七島のイメージを拳にぎゅっと握り込む。私の心の動きを感じ取ったのか、あるいはしばらく黙っている私が気になったのか、七島がこちらに顔を向けた。
「本田さん、コーヒーでも淹れようか?」
 一点の曇りもないごく普通の調子だった。
「おれが淹れるよ。」
 私は拳を握り締めたまま立ち上がった。掌中にあるのは私の奇貨だ。

 単行本未収録「変態月」(85年発表)も。
(平野)