週刊 奥の院 9.7

今週のもっと奥まで〜
■ 加藤千恵 『あとは泣くだけ』 集英社 1300円+税 
装幀:名久井直子 装画:いくえみ綾
 著者は1983年北海道生まれ、歌人。2001年、高校生の時、歌集『ハッピーアイスクリーム』でデビュー。本書は切ない恋愛小説集。キーワードは「贈り物」。
おぼえていることもある
 女に養ってもらっている「おれ」、女に結婚をほのめかされて部屋を飛び出す。友人の部屋に転がり込む。そこにあったウィリアム・バロウズの本。ある女にもらった本と同じ。2年前、バーのパーティーで出会った紗江子のことを思い出す。いや、いつも彼女のことを考えていた。可愛くないし、地味、無愛想。

……
「わたしのことが好きなの?」 
「多分」
「行きましょうか」
「え? ……どこ行くの」
 歩き出しても彼女は何も言わなかったので、しびれを切らしたおれは言った。方向的には駅のほうに、おれたちは歩いていた。
「行くの? 行かないの?」
 足を止めた彼女は、不思議そうに訊ねた。でもそれはおれの質問の答えにはなっていない。
「どこに?」
おれが言うと、おれが変なことを言っているかのように、彼女は首をかしげた。試されているのかもしれない、とそのとき初めて思った。
 行くよ、とおれは言う。彼女はまた歩き出した。(彼女は無言、電車に)……
 なんでなんだ、と彼女を初めて見かけてから今日まで、何度も思ったことを、また改めて思う。とくに綺麗なわけでも、感じのいいわけでもない彼女のことが、どうしてこんなに気になるんだ。眼に見えないオーラみたいなものが彼女から出ているとか、前世で何かあったとか、いつもは考えたこともない、むしろバカにしていた類のそうしたミステリアスなことが起こっているとでも言われたほうが、まだすんなり納得できそうだった。理屈じゃない自分の思いに、おれは困惑していた。(彼女の部屋に)
「布団敷く?」
 こちらが答える前に、彼女は部屋の奥の押入れへと数歩歩き、ためらうことなく布団を出しはじめた。
「これ、シーツかぶせて」
 折り畳まれた、薄いピンクのシーツを手渡され、言われるままに敷き布団にかぶせた。普通に考えれば、これからおれたちはセックスをするということだろうけど、全然そんな雰囲気ではなかった。花見の場所取りみたいだ。(彼女は布団に入る)
「別に、こういうことをしに来たわけじゃない」
「知ってるよ」
 彼女はゆっくり上半身を起き上がらせた。
「でも今夜だけだよ、私がこんなふうになるのは」
「…………」
「もう二度とこんなふうにはならないけど。いいの?」
 わけのわからない感情が、おれの心を激しく動かした。……

 結局、彼女の部屋に住むことに。「おれ」は働き始めた。彼女は機嫌のいい時もあるが、基本的には無表情。彼女に喜んでほしくて、料理、プレゼント、面白い話をした。
 バロウズの本をもらった。『おぼえていないときもある』。読んでもわからない。
 彼女は、好きな人ができたから出て行ってほしいと言う。「おれ」は泣いて抱きしめたが、通じなかった。「わたしは、あなたのことを好きだったことなんてない」。
 いまだに、あの本を開くことがある。わからない。わかるようになったら、彼女の気持ちも少しはわかるのだろうか。

 おれにはわからないものが多すぎる。できないことが多すぎる。欠けているのを焦燥感にするのではなくて、逃げることでなんとかやってきている。逃げ続けて、そのさきに何があるかなんてわからない。ただ、楽しそうにしていることしかバカなおれにはできない。(別れてきた女のことを思う、今頃うろたえ、混乱しているだろう、泣いているかもしれない)
 山下紗江子の気持ちは全然わからないし、バロウズも全然わからない。
 だけどあれから、わかるようになったのかもしれない。今、女の気持ちを想像して、おれは泣きたい気持ちにある。

(平野)
 5日、J君「退職&結婚&田舎帰ってしまえ」パーチー。激励、祝福、怨恨……、出席者のスピーチ。
 J君と仲良しのB堂O店長は、「この、うらぎりもん!」と叫んだ。
 わがF店長はJ君との熱いキッスの思い出を(そんなん、聞きたない!)。
 私は「ツライ」としか言えなかった。