週刊 奥の院 8.12

■ 高橋源一郎 『非常時のことば 震災の後で』 朝日新聞出版 1600円+税
1 非常時のことば  ことばを失う すべて自分の頭で考える 掘っ建て小屋みたいな文章を書く この世の地獄の美しさ 他
2 言葉を探して  林道を進む 「空気」に抵抗する 降ってくる放射性物質が、くっついた文章 他
3 二〇一一年の文章  「文章」が生まれる場所 「あの日」からの文章 根を張ること 真夜中に 二〇一一年に、「自分の子どもではない赤ん坊」を育てる小説を読むこと 他
小説トリッパー」連載。 
 

災害の規模は桁外れに巨大だった。六十六年前に終わった戦争以来、もっとも大きな災いが起ったのだ。そして、人びとは、同時にことばを失ったように、ぼくは思えた。……

 鶴見俊輔加藤典洋ジャン・ジュネ石牟礼道子川上弘美まどみちお、古本憲寿……、「あの日」のあと(非常時)でも読むことができる文章を引用しながら編む文章教室。
 加藤典洋の文章を紹介、ことばに関する、あるとてもたいせつな「みちすじ」を考える。
地震津波原発事故は異質だ。前者について、私たちは悲しみや痛みを感じる。なんとかしてあげたいと思う。後者についてはわからないことが多すぎて、どう考えていいのかわからない。事故以前から「考える」ことをしていない。そして、「考える」ことから逃げる。経験したことがなく、前例もないもの、だれも教えてくれない。本にも書いていない。
 

なにも参考にするものがない場所で、ものを「考える」時、どうすればいいのか。
自分の中を探ってみるのである。そこには必ず、なにかがあるはずだからだ。そして、それしか、ぼくたちは頼るものがないはずなのだ。……
経験したことのない事態に遭遇して、加藤さんは、まずいちばん間違いのないものに立ち返る。
それは、自分だ。あるいは、自分の中にある、自分の感覚や感情だ。なぜ、それがいちばん間違いがないのか。
そこにある、自分の感覚や感情だけは、自分を裏切らないからだ。

 著名な批評家でも、出会ったことのない事態に、ことばが出てこない。
「非常時」に遭遇し、ことばを失い、正しくことばを発するために、その準備として「絶句」した後、加藤が発見したのは「未知の、悲哀の感情」だった。
 

その感情は、今回の惨事が人間を含む自然全般を深く汚染・毀損することを通じ、私を“スルーして”いわば次代を担う人々、若い世代の人々、これから生れてくる人々をターゲットにしていることから、来ていたように思う。大鎌を肩にかけた死神がお前は関係ない、退け、とばかり私を突きのけ、若い人々、生れたばかりの幼児、これから生まれ出る人々を追いかけ、走り去っていく。その姿を、もう先の長くない人間個体として、呆然と見送る思いがあった。……  
 今回の災害は、たぶん将来、世界史最大の原発事故に数えられるだろう。その災厄の真下に生きて、私は、旧ソ連邦が一九九一年、チェルノブイリ原発事故のわずか五年後に崩壊しているのは、偶然ではないと感じている。日本はこれまで欧米の西洋諸国に『追いつけ追い越せ』でやってきたが、『追いつけ追い越せ』、『キャッチアップからフロントランナーへ』ではダメだ。『追いついたら、追い越さない』、追いついたら、走るのをやめ、共に並んで歩む。それがよいと思っている。『成長』をより成長することで脱すること(outgrowing the growth)。それが、今回の津波地震原発事故からなる災害の全貌のなかでなくなった人、苦しんでいる人、今後も苦しみ続ける人に、私なら私が、自分の持ち場で応えることだろうと、考えている。……
「死神に突き飛ばされる――フクシマ・ダイイチと私」

 高橋は加藤の文章を、素人っぽい、誰だって書けそうと思うが、それは加藤が「うまく書くことはやめよう」と思って書いたからだと言う。

 うまく書こうと思ってはいけない。文章に凝ってはいけない。なにより、あなたたちは(もちろん、ぼくも)、なにを書くのか注意しなければならない。
 あなたたちが「書くにふさわしいなにか」を見つけたら、もう、「文章」は、半分できたようなものだ。
「書くにふさわしい」なにかを見つけた後は、それを書くあなた自身に、その「書くにふさわしい」なにかを書くための準備ができているかを、調べればいい。
 もちろん、完全な準備なんか、誰にもできない。いま、あなたが持っているもの、それが、あなたが準備できるすべてだ。それを、一つ一つ調べて、できるだけ、上手に使いこなすこと。
 それが、文章を書く、ということだ。それ以上、あなたがするべきことはなにもないのである。……

(平野)