週刊 奥の院 7.16

■ 由良君美 『椿説泰西浪漫派文学談義(ちんせつたいせいろまんはぶんがくだんぎ)』 平凡社ライブラリー 1700円+税 
 1972年青土社、83年増補改訂版。5月の『みみずく偏書記』(ちくま文庫)に続いて復刊。多くの読書人が待っていた。
 解説は高山宏。冒頭の一句(後掲)で学界誌には総否定の書評が掲載されたそう。

……ロマン派ひとつとっても、汚れる自然の只中で純粋無垢に憧れるだの、男女間、神人の間の一途な愛だの、およそ〈学〉とも〈知〉ともいえない水準の研究や教育のレヴェルで止まっていたロマン派講義が『椿説』でぶっとばされた。……

「類比の森の殺人」より。

 すこしイギリス文学を面白いものにしてみよう――つまり現代の経験につなぎとめて読んでみよう。もちろん、時はロマン派時代。イオネスコの台詞ではないが〈算術から言語学へ、言語学から犯罪へ〉の方途を、鋭敏な芸術家が洞察したのは、この頃のことだ。そして、この台詞の方程式は、只今現在、いよいよ有効なのである。
……反良俗の美学が人間性の奥底の真実にふれる消息を、最初に伝えたのが、実はイギリス・ロマン派の観念の冒険であったといえば、人は愕(おどろ)くだろうか。

 犯罪、グロテスク、醜の美学。
 イギリス文学史に埋もれているある人物を紹介する。その人の影響を受けて、ウィリアム・ブレイク、チャールズ・ディケンズオスカー・ワイルドが大作を書くことができた。
 

 一八世紀末葉から一九世紀の半ばにかけて、イギリスの文壇の一隅に徒花のように棲息していた一人の伊達男がいた。その名を、トマス・グリフィス・ウェインライトといったが、死んだ時は獄囚であった。

 彼の邸には当代の文人墨客が集まった。チャールズ・ラムは「心あたたかな気さくなウェインライト」と呼び、彼の散文を「美事なもの」と褒めた。
 母方の祖父が「月刊評論(マンスリ・リヴュー)」の創刊者で本屋としても有名人。幼くして両親が亡くなり、叔父に育てられた。豪邸の庭園で「生来の鋭い感受性を境遇によっていやがうえにも砥ぎすまし」、ワーズワスの詩集を読み、学校では芸術的才能を伸ばした。祖父の人脈で広い交友関係も結んだ。画業を放棄して1年ほど軍隊に入った。退役して、

……彼の、若き道楽者・卓抜なアマチュア芸術家・批評家としての生活が始まる。
(「ロンドン・マガジーン」に評論)……様々な筆名を使って、絵画、美術、文学、趣味を縦横に論じ、ラムをして「彼はロンドン・マガジーンの天才、ぼくらはただの評論屋」と嘆かせるに至った。……

 祖父の遺産と文筆収入で、いわゆる高等遊民として過ごしているはずだった。しかし、叔父はじめ彼の近親者が次々不審な死を遂げる。遺産、保険金、豪邸を自分のものにするための犯罪。芸術三昧の豪勢な生活で借財は莫大なものになっていた。フランスに逃亡するが捕えられ、終身流刑。タスマニアの獄で絵を描いて暮らし、猫に愛情を注ぎ、病苦を忘れるために阿片を吸い……1847年8月卒中で死んだ。
 文学史あじけない頁にはウェインライトの名前はない。」
(平野)