週刊 奥の院 6.21

■ 石原吉郎 『望郷と海』 みすず書房 始まりの本 3000円+税
 詩人、1915〜1977年。静岡県出身。39年応召、41年関東軍特務機関配属。敗戦後、シベリア各地の収容所。49年2月、戦争中の反ソ・スパイ行為の罪で重労働25年の判決。スターリン死去による特赦で53年12月帰国。詩作を開始。
 本書、72年筑摩書房刊。90年筑摩文庫、97年ちくま学芸文庫。いずれも品切れ。

陸から海へぬける風を 
陸軟風とよぶとき
それは約束であって
もはや言葉ではない
だが 樹をながれ
砂をわたるもののけはいが
汀に到って
憎悪の記憶をこえるなら
もはや風とよんでも
それはいいだろう
盗賊のみが処理する空間を
一団となってかけぬける
しろくかがやく
あしうらのようなものを
望郷とよんでも
それはいいだろう
しろくかがやく
怒りのようなものを
望郷とよんでも
それはいいだろう    〈陸軟風〉

 海が見たい、と私は切実に思った。私には、わたるべき海があった。そして、その海の最初の渚と私を、三千キロにわたる草原(ステップ)と凍土(ツンドラ)がへだてていた。望郷の想いをその渚へ、私は限らざるをえなかった。空ともいえ、風ともいえるものは、そこで絶句するだろう。想念がたどりうるのは、かろうじてその際までであった。海をわたるには、なによりも海を見なければならなかったのである。……

 重労働判決を受けて送られた収容所は北カザフスタンカラガンダ
 

 起訴と判決をはさむほぼふた月を、私は独房へ放置された。とだえては昂ぶる思郷の想いが、すがりつくような望郷の願いに変ったのはこの期間である。朝夕の食事によってかろうじてくぎられた一日のくり返しのなかで、私の追憶は一挙に遡行した。望郷の、その初めの段階に私はあった。この時期には、故国から私が「恋われている」という感覚がたえまなく私にあった。事実そのようにして、私たちは多くの人に別れを告げて来たのである。そのとき以来、別離の姿勢のままで、その人たちは私たちのなかにあざやかに立ちつづけた。化石した姿のままで。
 弦にかえる矢があってはならぬ。おそらく私たちはそのようにして断ち切られ、放たれたはずであった。私はそのときまでささえて来た、遠心と求心とのこのバランスをうたがいはじめたとき、いわば錯誤としての望郷が、私にはじまったといっていい。弦こそ矢筈へかえるべきだという想いが、聞きわけのない怒りのように私にあった。……

 極限状態のなかにあって、さらに25年の重労働判決。読む者が、理不尽、不条理と感じても、所詮部外者。石原は誰に恨みを言うわけではない。ただただ自分の体験、思いを書く。
(平野)
 この5月義父が他界。彼もシベリア抑留者だった。カラカンダにいたと聞いた。