週刊 奥の院 6.8

今週のもっと奥まで〜
■ 石田衣良 『ラブソファに、ひとり』 角川書店 1300円+税 
 表題作他、恋愛小説9篇。いつもの衣良さんのイヤラシイお話ではないですが。
「ラブソファに、ひとり」より。
 理紗子、35歳、独身。マンションを買う。インテリアショップでふたりがけのソファを見て、急に結婚したくなる。同僚が「結婚なんて、そんないいもんじゃないよ」と言う。婚活会社のパーティーに参加するが、男たちの興味は数字と条件。空しくなる。同僚が夫の友人・直記を紹介する。製薬会社の研究員。お見合いデートで、彼はすぐに帰ってしまう。ひとりで秋葉原に行くと言う。メール交換はして、毎日彼からメールが届くが、しばらくすると途絶える。実験で徹夜の毎日だった。5日目にメールが来て、すぐに返信、デートの約束。理紗子はおめかしして、新しいヒールで出かける。

 直記はよくしゃべり、理紗子はよく笑った。それは理想的な初デートだった。
 けれど、いいことと悪いことは必ず同時にやってくる。
 二十分ほど歩いたところで、理紗子はもう足の痛みに耐えられなくなった。
「ごめんね、直記さん。わたし、ちょっと……」
「ずっと足が痛かったんだよね。だいじょうぶ? おんぶしてあげようか」
 この人はこちらが恐縮しないように、あたりまえのようにゆっくりと、となりでエスコートしてくれた。
 理紗子はそれに気づいたとき、涙がでそうになった。
 わたし、この人が好きだ。
 そんなふうに素直に思えたのは、もう十年近くなかった気がする。人を好きになるのは、素晴らしい気分だった。相手がもっている数字や条件を、何百となく積みあげても、決してこんな素敵な気もちにはなれないだろう。
秋葉原の裏通りは暗かった。沸騰するように湧きだした涙は、直記に見られていないはずだ。理紗子は顔をあげるといった。
「この近くにデパートあるかな」
「うん、上野まで歩いて十分くらいだけど、タクシーのほうがいいよね」
 理紗子は表通りにもどりながら、わざと足をふらつかせた。
「だいじょうぶ?」
 直記が手をとってくれる。意外とやわらかな指先にはっとする。計算通りだ。今夜はこのあと、どうやってこの人と終電がなくなるまですごそうか。理紗子は三十五歳独身だけれど、それなりに魅力のある大人の女性である。好きな男といっしょに朝を迎えるための手なら、実戦で鍛えた確実な方法を三通り身につけていた。
 それこそ今を生きる三十代女性のたしなみというものだ。
 理紗子はあまり積極的にとられないように直記の手を引き、ネオンサインが昼間のように明るい通りで、高々と右手をあげた。

 ラブシーンではなく、「23時のブックストア」の話から。
 書店員・弓佳。デートのカップルの話し声が耳に入る。読みたい本がない、おもしろい本がない、と。
 

 そんなはずはないと、弓佳は思った。いい本はいつの時代にだって、必ずある。探し続ける気もちさえあれば、必ずいい本にぶつかるはずなのだ。毎日新刊の洪水のなかで溺れそうな自分でさえ、やはり月に何冊かは心を動かされる本に出会っている。四六時中紙にふれているせいで、指も手も脂が抜けてかさかさだが、それでもこの仕事が好きだった。
 弓佳はある作家が自分の本のあとがきで書いていた言葉を思いだした。
(この本があなたの手に届くまでには、「仕事だけじゃこんなたいへんなことやってられない、やっぱり本は好きだからなあ」という名前の複雑なシステムが介在しています)
 作家のようにいつも華やかなライトを浴びているわけではない。大手出版社の編集者のように会社の経費でご馳走をたべたり、のんだくれるわけでもない。それでもこうしてエプロンをつけて、ほこりまみれで働いている自分も、読者の元へ本を届けるというおおきな仕事の一翼をになっているのだ。疲れているときは、悲しくなったり、きつく感じることもあるけれど、誇りをもって続けている仕事である。……


 じっと手を見る。
 衣良さん、ありがとう。
 「井島多良」という作家が名前だけ登場する。
(平野)