週刊 奥の院 6.3

■ 高祐二(コ・ウイ) 『韓流ブームの源流  神戸に足跡を残した韓国・朝鮮人芸術家たち』 社会評論社 1200円+税
1 神戸を魅了した崔承喜の舞  
2 小畑実が神戸で録音した朝鮮解放歌謡
3 神戸を訪れた往年の大スター文藝峰
4 ザッツ・エンターテインメント〜解放前、海を渡った朝鮮の芸能人たち
5 韓流の光と影
 著者は1966年生まれ。理学療法士、兵庫朝鮮関係研究会会員。第4章は実兄の高東元(コ・ドンウォン)執筆。
 

 今を遡ること一世紀のあいだ、朝鮮半島は常に激動の嵐の中にあった。日本による植民地支配とその後に続く南北分断という厳しい状況にあって、朝鮮半島において文化・芸術が何の干渉もなく、ありのままに表現されることは夢物語であった。また、そんな中では、文化・芸術がまっとうに評価されることもなく、「韓国・朝鮮もの」は日本人から見れば、理解しがたい時代錯誤のイデオロギーに虚飾された無価値なものとして忌避されていたのかもしれない。それは、少なくとも筆者自身がこれまで感じてきた韓国・朝鮮の芸能・文化のありようで、在日の筆者すら自分から積極的に受容する気など起こらなかった。しかし、厳しい時代や政治状況の中にあっても、韓流文化はその底流で死滅することなく磨きをかけて、韓国で民主化が進む中、その才能・凄みを開花させたのではないかと考えている。

「ブーム」と片付けられない。ドラマ・音楽だけでなく、ハングルを学び、歴史に関心を持つ人が増えている。ご婦人だけかと思っていたら、紳士方も増えてきた。
 本書では、韓国・朝鮮人芸術家が神戸に残した足跡をたどる。神戸で生まれ育ったとかいうのではなく、ほんとうに「足跡」だけ。しかし、著者はその「足跡」から、時代や政治に翻弄された個人の歴史を浮かびあがらせ、彼らの芸術的魅力を探る。 
 崔は、川端康成が絶賛し、ピカソが脱帽したといわれる「半島の舞姫」。35年と41年に神戸で公演。戦争の激化とともに芸術活動は困難となった。戦後は北朝鮮で活動したが、政治的に迫害された。
「私はこれまで朝鮮の踊りを生命とすべきか、西洋舞踊を主にすべきかでずいぶん考へたのですわ、だつて崔承喜は朝鮮舞踊の珍しさで人気を得たんだといはれるのが嫌になつてしかたなかつたの…でもそんなことを不安がるのはやつぱり私がまだ未熟だからで、自分のひがみにやつとこのごろ気がついたわ。……私もつともつと朝鮮の踊りを深くほり下げてみたいと思つています……」(1935年10月25日「大阪朝日新聞」)
 小畑は1923年平壌生まれ。同郷のテノール歌手に憧れ、東京で学ぶ。41年デビュー。戦後は古賀政男作品を歌った。古賀は幼少期を仁川で過ごし、朝鮮を第二の故郷と言うほど。小畑のために朝鮮歌謡をモチーフにした「涙のチャング」を作曲した。小畑は出自を隠すことはなかった。46年神戸を中心にした朝鮮文化団体が須磨にレコード吹込所を作り、小畑はそこで朝鮮国民歌謡「独立の朝」をレコーディングした。57年突如引退し、本名を名乗りアメリカに行く。66年韓国でデビュー、さらに69年日本の芸能界にも復帰。詳しい経緯を彼は語っていないが、朝鮮半島の政治状況によって、在日の有名人が利用されたとみられる。
 文藝峰は戦前「朝鮮の名花」といわれた女優。戦後、北で「人民俳優」。85年、映画撮影のため来神、神戸新聞が取材している。記者会見で、戦前に来日したときのの監視状態を思い出し、今回の歓迎を喜んでいる。そして、
「もう四〇年近く私は南にいる昔の映画仲間に会っていません。妹や親類に手紙も出せません。国交のない日本にさえ来ることが出来たというのに……」

 ……彼らの神戸での言動をたどると、その時々の日本と朝鮮半島の避けることの出来ない局面に遭遇していたことが理解できる。政治家ではない、文化人・芸術家であったが故に、彼ら自身の表現方法で、ある時は両国間の軋轢、またある時は友好を訴えてきたのである。
 そうした先人の働きかけが土壌にあるからこそ、韓流ブームが日本に定着してきたと考える。……
 韓流が日本で受け入れられる今日にあって、日本社会はこれまでの西欧社会一辺倒という価値観から、アジアを評価し、アジア的な文化を積極的に受容する二十一世紀的嗜好へと転換する時代に差し掛かっていると言える。それは韓国社会においても同様で、植民地支配の被害者意識で日本をステレオ・タイプに捉えるのではなく、日本語や日本の文化を積極的に取り入れることで、日本との距離を埋めつつある。

 いっそうの相互理解・友好を。
(平野)