週刊 奥の院 5.1

■ 原宏之 『大正大震災  忘却された断層』 白水社 2000円+税 
 関東大震災を思想史的事件として考える。
 1923(大正12)年9月1日の大震災を「関東大震災」と呼ぶが、「阪神・淡路大震災」や「東日本大震災」のような公式統一名称ではないらしい。「大正大震災」「大正大震火災」「大正震災」「東京大震災」「帝都大震災」などいろいろな名前があった。「関東大震災」が一般的になったのは戦後だそうだ。しかし、「大正大震災」の呼び名は戦後も使われている。1993年宮沢内閣のときの「首都移転」論議でも出た。
移転のタイミングは「革命のときか大災害」と。明治維新であり、大正大震災という認識。
関東大震災」後、遷都論が起こった。周期的に巨大地震が起こる場所に「帝都」を置くわけにはいかない、という理由だけではない。東アジアを領土とする帝国全体から見て、東京は政治経済上不便。また、アメリカとの関係悪化で戦争になったときに危険。
 

「大正大震災」を受けて発生した遷都論は、単に地震への恐怖を背景としたものではなく、これを機会に国のあり方を根本的に変えることを企図したものであった。……

 政府は不遷都を打ち出したが、「大正大震災」の呼び名を使った。「関東」地方限定の災害ではなく、日本国家全体の災害であり、その復興は日本国民全体の使命だと、国民に受けとめてもらわなければならなかった。
「日本は強い国」「心をひとつに」「絆」……、おんなじ。
 第一次世界大戦の好景気による成金文化や奢侈の問題、恋愛至上主義など性の乱れ、そして、好景気はかげりを見せ、失業者が増大し各地で労働争議が激化……、11月10日、「国民精神作興に関する詔書」が下される。
「大正大震災」は、東日本大震災よりもはるかに濃厚な政治的味付けがなされた震災名称だった。
 著者は1973年生まれ。NHKディレクター、首都大学助教授を経て、取材・執筆活動。政治学博士。
 装幀:森裕昌 カバー絵:有島生馬「大震記念」(1931年)

 1929(昭和4)3月、「帝都復興完成」記念式典など大イベントで盛り上がる。
 

 だが、乱痴気騒ぎにふけっている間にも時代は確実に動いていた。四月下旬、ロンドン海軍軍縮条約に端を発する統帥権干犯問題が発生する。五月三十日には中国東北地方で朝鮮人独立勢力による暴動が発生し、日本領事館などが襲撃される。十一月十四日には首相浜口雄幸が東京駅頭で襲われ……、翌年九月満州事変……。

(平野)