週刊 奥の院 12.26

■ 鎌田慧 『残夢  大逆事件を行き抜いた坂本清馬の生涯』 金曜日 2200円+税 
 

明治の末期を彩った「大逆事件」での、幸徳秋水、管野須賀子など処刑された一二人の悲劇についてはよく知られている。しかし、一二人の運命があまりにも不運、悲惨だったために、その陰でおなじ「大逆罪」に連座したにもかかわらず、死一等減じられた残りの一二人、あるいは有期刑になった二人の青年については、ほとんど伝えられていない。処刑は免れたとはいえ、無期懲役の重罰だったのだ。
 おなじ無実だった。一方はたちまちにして処刑され、一方はかすかな僥倖によって死を回避し生を得た。もちろん、この運命のすれ違いは不条理である。とはいっても生者にも自死、獄死があいつぎ、やはり過酷な生だったはずだ。

 坂本清馬(1885〜1975)は高知県室戸生まれ。21歳のときキリスト教の洗礼を受け、河上肇の評論で「社会主義」を知る。上京して働きながら社会主義文献を読み、幸徳の書生に。運動で獄に入る。1909年幸徳と喧嘩、翌年運動を断念してパリ行きを決意してから、幸徳の逮捕を知る。別件(浮浪罪)で逮捕され起訴。獄中では無実を訴え再審請求も。34年仮出獄大本教に入信したり、町議会議員になったり。61年再審請求、67年最高裁で棄却。裁判所は明治の暗黒をそのまま踏襲した。
 処刑12人、無期12人うち縊死2人獄死3人、有期刑2人。

……耐え抜いて、とにもかくにも仮出獄できたのは七人だったが、その後、事故死、困窮死がつづいた。生きているかぎり「大逆」がついてまわった。生き残った清馬には、その無念を晴らす義務があった。

 清馬は逮捕時の報道で、6人の最重要人物のひとりとして顔写真まで掲載された。ひとり死刑を免れ、連座した26人のうち昭和まで生き残った。
「不屈に生き抜き、無念の冤罪を晴らすべく再審請求することができた」ただひとりの人物。一生を賭けた悲願だった。
「坂本清馬の夢の跡を、いまわたしは歩いている」
(平野)