週刊 奥の院 9.24

■ 柏木薫 『その日の久坂葉子』 編集工房ノア 2000円+税
 
 随筆と短篇小説集。
 表題作は「久坂葉子」のあの日について。
 昭和27(1952)年12月31日、作家久坂葉子は阪急六甲駅で電車に飛び込んだ。この2年前、弱冠19歳で芥川賞候補。新聞に小説を連載し、演劇にも進出していた。
 同じ頃、著者は、
「生きんがために過酷な環境にあった。進駐軍専用キャバレーの事務員として、一日十数時間も働き、体も精神もくたくたになっていた。学生時代に志していた文学のブの字も感じられない生活だった」
 住まいが久坂の家に近く、その豪邸の前を毎日通っていた。同年代でありながら、久坂の存在は眩しいものだった。
 久坂は旧川崎財閥のお嬢様。曽祖父が川崎造船創立者で、祖父は男爵、父は川重の重役。母方の祖父母は旧藩主のお家柄。戦後、公職追放で没落したとはいえ何不自由ない生活であったろう。それでも自殺しなければならない理由があった。
 しかし、自殺なのか、事故なのか? 遺書はない。16歳の頃から自殺未遂を繰り返していたのは事実。
 久坂の最後については、冨士正晴が『贋・久坂葉子伝』を書いているが、著者は関係者に取材して彼女のその日を追う。
 冨士は、久坂の思い人を「御津村」(久坂の作品では「鉄路のほとり」と表現)としている。

 (自作『幾度目かの最期』を御津村に渡して)
「お元気で。いいお年をおとりなさい」
 久坂葉子は言った。一瞬御津村の顔が泣き顔になりかけた。気付いてみると、その頬を平手でピシャリと打っていた。……身をひるがえして門の外へとび出して、それからゆっくり歩き出した。泪がしばらくぼろぼろでた。けれど、その甘い泪もつづかなかった。それで終わりだった。御津村は追っかけてこなかった。久坂葉子は万事は終った、自分がおそれていた通りだったと思った。神戸へ帰るより仕方ないのだ。……

 著者の推理は。

 朝早く自宅を出た久坂は、京都から立ち去り難かった筈だ。上京区の鉄路のほとり(北村英三)宅から嵯峨野へと足を運んだと想像出来る。久坂は少し前「嵯峨野」という短篇を書いている。

 川崎家で女中をしていた人が嵯峨野にいて、何度もそこを訪ねている。友人とその家に泊まったこともあった。結婚したい人がいるが家族は反対し、相手の男も家柄の違いを言う、辛い、と友人に打ち明けていた。
 久坂は曽祖父ゆかりの寺に詣で、昼すぎに神戸に。新聞社で原稿料の前払いを要求し、若い記者と三宮で呑む。その後、繁華街をあちこち歩き、文化人仲間の忘年会に。その最中、彼女は一人出て行く。
 著者は1930年小豆島出身。78年「久坂葉子研究会」を立ち上げた。バー「MAKO」を経営しながら作家活動をしたが、昨年バー引退。
(平野)
「MAKO」の経営を引き継いでおられた、新開地の「シネマ神戸」館主・三幣浩一さんが7月に亡くなっていたことが22日の「朝日新聞神戸版」に。享年78歳。【海】のお客さんでした。個人的には前の本屋でもごひいきいただきました。ご冥福をお祈りいたします。劇場・バー共、友人の方が受け継がれます。