週刊 奥の院 9.23

◇今週のもっと奥まで〜
■ オール讀物』 10月号 文藝春秋 905円+税 特集:官能的 短篇小説エロティシズム  小池真理子ソナチネより
 佐江、30代後半、ピアニストでA家令嬢菜々子(11歳)の専属教師。音楽家の婚約者がいる。A家の別荘でホームコンサート。菜々子の叔父健次郎(40半ば)に出会う。佐江はキッチンでケガ、彼が応急処置をしてくれる。自己紹介、彼は、「初めて会った気がしない。……夢の中で会ったのかもしれない」。
 コンサートには招待客が大勢、隣の席は彼、目が合う。

……にこりともしていなかったが、彼の目はひたと意味ありげに佐江をとらえた。
 佐江もまた、そこにこめられているであろうものを瞬時にして受けとめた。二人の視線は、無数の目に見えない、細いが強靭な糸のようになって、烈しく絡まり合った。
 それは決して言葉では説明できない、あえて言うならば、深い共犯者意識に近いものだった。ただひとえに、肉体の奥の奥、深い闇に閉ざされた部分でのみ、感じられるものだった。
……菜々子の演奏が始まる。ソナチネ……
 だが、佐江は菜々子のことは見ていなかった。音楽も聞こえてこなかった。視線は菜々子に向けていたが、見ているもの、感じとろうとしているものは菜々子ではなかった。隣の席にいる健次郎だった。……
 佐江は椅子の上で両足を組み、少し姿勢を崩した。その直後のことだった。右の太腿のあたりにかすかな異変を感じた。
 それは、やわらかく動く何かだった。羽ペンの先でそっと触れられているような、押しつけがましさのまったくない、しかし、明らかに意図して触れられている、という確かな感触だった。……
 嫌悪感はひとつもなく、恐怖心も不安もなかった。あったのは、軽い驚きと、軽い興奮と、間違いなく悦楽に通じるだろうと思われる、密かな快感だけだった。
……しばらく指の動きの描写、菜々子の演奏が終了……
 健次郎の上半身がわずかに傾いてきたかと思うと、「後で裏庭に」と囁く低い声が聞こえた。「先に行って待ってます」 ……佐江、ステージの菜々子のところには行かず、走り出す……
 佐江は走った。熱いものが身体を充たし、沸騰し、今にも気が変になりそうだった。
 裏にまわれば、と佐江は思う。あの建物の裏にまわれば、そこに裏庭があるのだ。裏、というのはそういうことだ。そして、裏庭に行ったが最後、自分はきっと、元の世界、自分に用意されていた確かな人生には戻れなくなるのだ。
 一刻も早くそうなりたくて、佐江は走り続ける。欲望の塊になることの、何という心地よさ。これから起こることのために、乳房がはちきれんばかりに張ってくるのがわかる。
 別荘の庭の一隅に、夜の闇を蹴散らすかのようにして咲く、一本の巨大な山百合の花が見えた。自生とおぼしき白い山百合だった。
 あそこあそこ、と佐江は思う。あの花の裏を廻ると裏庭なのだ。
 佐江の頭の中に流れている、ソナチネのメロディが大きくなる。息が切れる。はっ、はっ、という自分の息づかいが優しいピアノの音色に重なる。
 佐江はもう、ほとんど身悶えしそうになりながら、山百合の裏に走りこんだ。

村山由佳石田衣良に若手女流、さらに覆面直木賞作家も。「宇能鴻一郎」の名前も。
(平野)