週刊 奥の院 8.15

■ 奥村直史 『平塚らいてう  孫が語る素顔』 平凡社新書 840円+税
 著者は、奥村博史・明(はる、らいてうの本名)の長男の長男。1945年生まれ、心理療法士。47(昭和22)年から祖父母との暮らしが始まる。

 祖母が「平塚らいてう」というペンネームを持ち、社会的に活動していることは、小学校に入る頃から知っていた。しかし、私にはあくまで「おばあちゃん」でしかなく、晩御飯の時には、部屋から出て来て一緒のお膳につくが、その他のほとんどの時間は自分の部屋にこもって、何をしているのか私にはよく分からない人であった。

 小学5年生の時、祖母の新刊本が同級生の本屋の棚に並んでいた。
「誇らしいような、恥ずかしいような、不思議な印象」を記憶している。
 大学の図書館で著書を目にして本を開く。「森田草平」のことも「若いツバメ」のことも知った。
 祖母の死後、自伝や著作集をまとめた秘書の人に、著作を読んだことがあるか尋ねられるが、ほとんど読んだことがなかった。
「祖母は何となく遠い人であり、私は祖母とは離れた自分の生活を作ることばかりを考えていた」
 祖父母と孫の微笑ましい情景は、ない。だからといって、無視とか疎まれたということもない。感情表現が控えめだった。孫の存在を心にとめ、穏やかな視線と配慮があった。
「らいてう」は内向的な人だった、というと意外かもしれない。森まゆみさんも、自伝の「引っ込み思案でおとなしく、だんまり屋」を引用している。
「らいてう」は大きな声を出せなかった、遠くの人を呼ぶ時は手を叩いて合図した。電話でも相手が聞き取れず、家の人が代わって話した。

……内向的で、内にこもり、静かに一人風の音を聞きながら、瞑想に耽って過ごしたいという思いは、祖母の中に消しがたくあった。内省の中で、精神を研ぎすまし、注意を集注し、それを粘り強く持続することで、想いは広がり、思想は育ち、主張はまとまる。「静」の祖母の生活である。……

 しかし、世の中は彼女に「動」を期待する。様々な運動・組織に参加を求められる、要職に就く。
 彼女の中で「静」と「動」がせめぎ合う。
 行動的・積極的……という女性運動家のイメージは改めなければならない。
「元始、女性は太陽であった。真正の人であった。……」を創刊の辞に掲げた、雑誌『青鞜』は1911(明治44)年9月創刊。本年が100周年。ちょうどこの創刊のシーンが、森まゆみさんの連載(『青鞜』の冒険 「こころ」2号 )に書かれている。
 以前紹介した『いまそかりし昔』(りいぶる・とふん)の著者・築添正生さんは、「らいてう」の長女の子。
(平野)