週刊 奥の院 7・24

■ 星野博美 『コンニャク屋漂流記』 文藝春秋 2000円+税
 1966年東京生まれ、作家・写真家。OL勤務後、写真家・橋口譲二のアシスタント。
 2001年『転がる香港に苔は生えない』で大宅壮一ノンフィクション賞
 本書は星野家のご先祖探し。「コンニャク屋」とあるからほんとうに「蒟蒻屋」と思ってしまった。生家は町工場。工場を始めた祖父は千葉外房の漁師の六男。先祖は江戸時代に紀州からやって来た。祖母は外房の農家の次女。

 体のどこかに漁師の血が流れていることは感じる。祖父の母語である漁師語は喋れないが、聞けば意味はわかる。時々独り言を言う時、漁師語が飛び出して自分でもびっくりすることがある。……そして私はなぜか、寿司が嫌いだ。

 祖父は、彼女に遊びを教えてくれた。花札、野球拳、芸者相手の唄遊び、ビール瓶の尺八など、酒の席のお遊び。
 祖父と祖母の、漁と農という相反する文化が家の中で入り乱れていた。外向・内向、大胆・臆病、楽観・悲観、享楽・勤勉、浪費・貯蓄、放浪・定住、開放・閉鎖……、子どもには漁師の方が格好よく見える。「私は漁師の末裔になる」と決める。
 さて、「コンニャク屋」、外房の岩和田という漁師町・星野家の屋号。なぜ「コンニャク」なのか? 祖母方の農家は人名系統、「やいっとん」=弥一、「さんぜ」=三左衛門、「じんべ」=甚兵衛など。岩和田では人名系もあるが、「カボチャ」「あんご」「もんちん」「くそだる」というようなあだ名が多い。その中の「コンニャク屋」。どんな謂われがあるのか? 読んでちょうだい。
 祖父は74(昭和49)年71歳で亡くなる。手記を書きためていた。星野さんは作家になって、その手記が気になりだす。07年、葬式で親戚の人々と久しぶりに再会。
「そろそろ祖父の書き残したものと向き合う時」と感じる。
 手記のさわりだけ。
 祖父・量太郎さんは明治36年1月15日生まれ。

 生まれた日は類のない大漁のあった日といふので、(父親が)「漁太郎とでもつけてくれ」といったのが、役場の吏員が量太郎とつけたといふ事です。……六男でしたから漁六郎とでもつけられたらごろ悪く、大変だったと思った。

 小学校高等科2年の夏休みに隣家「加治屋」から、親戚の機械工場就職の話があり上京。工場の主人は岩和田の「孫左エ門」の三男で、おかみさんは「橋本」で「加治屋」のいとこ。  祖父の手記と家族・親戚の記憶に助けられて、ルーツ探しが始まる。


(平野) 編集工房ノア”のPR誌『海鳴り 23』が届いています。天野忠庄野至、和田浩明、鶴見俊輔、貞久秀紀、桜井節、萩原健次郎、森本良成、天野元、大塚滋、寄稿。