週刊 奥の院


後藤伸 玉井済夫 中瀬喜陽 『熊楠の森――神島(かしま)』 農文協 2000円+税
目次 
?いのちの森を守る熊楠の闘い 1 魚つき林とは何か 2 明治の神殺し、神社合祀 3 熊楠と神の森、神島

?熊楠から半世紀-神島の変貌 1 神島と照葉樹林 2 森の原形を探る 3 神の森はなぜ激変したのか 4 神島の森を特徴づける植物たち

?予期せぬ異変-ウ糞害との闘い 1 ウの大群の襲来 2 大量の糞で島はどうなったか 3 かすかな光明-自然の自己回復力 4 ほかの島でも深刻な糞害

?台風で壊滅した神島-真因を探る 1 一度の台風で甚大な被害 2 台風被害を拡大させた条件 3 過ちを繰り返さないために

 1871(明治4)年明治政府は太政官布告により全国の神社を官社、府県社、郷社、村社、無格社、の5段階に格付けし、伊勢皇大神宮を頂点とする国教系列化を整えた。1906(明治39)年勅令によって府県社・郷村社への神饌幣帛料の支出の条件が認可された。神社合祀政策推進の法律的基盤が確立する。小さい神社を合併・合祀し、神社の土地を整理・伐採する。「明治の神殺し」。南方熊楠は植物学の見地から神社合祀反対を主張、運動した。18(大正7)年、ようやく貴族院で神社合併不可が可決された。しかし、熊楠の運動で残った神社もあるが、たいていは姿を消していた。さらにいっそうの保護・保全を求めて、自然保護運動を続けた。
 神島は田辺湾の小さな島。29(昭和3)年天皇も上陸、視察し、洋上で熊楠が御進講した。島そのものが原始の森。ほかにも島々が点在する。この森が重要なのだ。

「魚つき林」。おかしな言葉で、要は、魚がつく森ということです。現在、「魚つき保安林」という制度があります。魚つき林というのは昔からあったのですが、明治三十年にこういう制度ができ、海岸線のモロのいくつかを「これは魚つき保安林や。これを伐ることはならん」と言って規制しています。しかし実際は、「魚つき林」という意味をまるっきり理解しないまま、海岸線の森の多くが伐採され、工事が進み、制度だけが残っているという感じになっています。
 なぜ魚が海岸の森につくのか。ぼくの子どものころ、やっぱりおやじがこんなことを言いました。なんと「魚は緑が好きや」というのです。だから、いつまでも漁業を続けるには海岸に木をのこそう、これが大事なことやと。おそらく、むかしから言い伝えられてきたことだと思います。漁師のために言われていることです。(略)残っている森には、とくに大きい森には全部、神さんが祀ってあります。神さんが祀ってあるから森が大事に残されたこともあるし、大きな森があるからそこに神さんを祀ったとも言えます。どっちにしろ、いい森を残して、神さんを祀って漁業の繁栄を祈った、ということもあるでしょう。

(後藤伸 1929−2003 教師、田辺市文化財審議会、南方熊楠保全顕彰会)
 先人の知恵と努力、保護にもかかわらず、森は荒れ、衰退した。
(平野)