週刊 奥の院 9.25

■ 三木清 『読書と人生』 講談社文芸文庫 1200円+税 
 三木清(1887〜1945)、兵庫県揖保郡(現・たつの市)生まれ、哲学者。一高卒業後、京都帝国大学西田幾多郎に師事。ドイツ留学ではハイデカーに学ぶ。27年法政大学教授。岩波文庫の「読者子に寄す――岩波文庫発刊に際して」の草案を作った。30年、治安維持法で検挙され教授退任。40年、岩波新書『哲学入門』がベストセラーに。45年6月、治安維持法で逮捕され、敗戦後の9月26日拘置所内で獄死。
 本書、42年小山書店刊、74年新潮文庫
「読書遍歴」

 今日の子供が学校へも上らない前から既にたくさんの読み物を与えられていることを幸福と考えてよいのかどうか、私にはわからない。私自身は、小学校にいる間、中学へ入ってからも初めの一二年の間は、教科書よりほかの物は殆ど何も見ないで過ぎてきた。学校から帰ると、包を放り出して、近所の子供と遊ぶか、家の手伝いをするというのがつねであった。私の生まれた所は池一つ越すと竜野の街になるのであるが、私は村の小学校に通い、その頃の普通の農家の子供と同じように読み物は何も与えられないで暮してきた。……

 雑誌というものを初めて見たのは小6の時、医者の子供に博文館の『日本少年』を見せてもらう。学校の先生が俳人で、作文の時間に生徒と俳句。子規、蕪村、芭蕉を知った。読書に興味をもつのは中3の時。国語の教師が副読本として徳富蘆花の『自然と人生』を読ませた。解釈など教えてくれず、ただ繰り返して読め、と命じられた。三木は蘆花が好きになり、自分でも本を買って読む。

……
 私が蘆花から影響されたのは、それがその時まで殆ど本らしいものを読んだことのなかった私の初めて接したものであること、そして当時一年ほどの間は殆どただ蘆花だけを繰り返して読んでいたという事情に依るところが多い。
四書五経素読は既に廃れていたよう)
……今日の子供の多くは容易に種々の本を見ることができる幸福をもっているのであるが、そのために自然、手当たり次第のものを読んで捨ててゆくという習慣になり易い弊がある。これは不幸なことであると思う。


「如何に読書すべきか」
 

 先ず大切なことは読書の習慣を作るということである。……
 読書は一種の技術である。……
 如何に読むべきかという問題は何を読むべきかという問題と関聯している。……
 善いものを読むということと共に正しく読むということが大切である。……

「書物の倫理」

 善い本を繰り返して読むということは平凡な、しかし思い出す毎に身につまされる読書の倫理だ。繰り返して読む愛読書をもたぬ者には、その人もその思想も性格がないものである。ひとつの民族についても同様であって、民族が繰り返して読む本をもっているということは必要だ。それが古典といわれるものである。……


◇ うみふみ書店日記 
  9月24日 火曜
 昨日、私が帰ったあと、名古屋のGF・K子さんが来てくれた。どうしてアンポンタン取ってくれないの? 私のこと嫌いなん? そうかもしれん……。
 おみやげ、「生ビール模様ブックカバー」と名古屋・東海限定お菓子。
 ありがとう。でも、いつ会えるのだろう……。

 
平日でも「バブル」変わらず。「写真集」は売り切れ。25日再入荷します。


 仙台ロフ子さんの「女のひとり飯」(月刊ミシマガジン) 第6回「神戸の夜は車窓めし」
 http://www.mishimaga.com/onna-hitori/006.html
 「豚まんハフハフロフ子さん」。クマキをべっぴんに、平野をクールに描いてくれてありがとう。
 また会いましょう。

(平野)