週刊 奥の院 9.12

■ 『新編 大杉榮追想』  山川均 賀川豊彦 内田魯庵 有島生馬 堀保子 ほか  大杉豊解説  土曜社 952円+税 
 雑誌『改造』1923年11月号の特集「大杉栄追想」を収録。
 山川均(1880〜1958)、明治から昭和の社会主義運動者。戦後、社会主義協会結成。山川菊栄は妻。
 大杉と最後に会ったのは亡くなる1年半かもう少し前。山川の方が年上だが、大杉の思想・才能を認めていた。
「大杉君と最後に会うた時」

 大杉君は、最もよい意味での才人であった。筆を持ってもやはりその通りで、立派な論文を書く、玄人はだしの小説も書く、詩も作る、芸術論でも文芸批評でも何でも来い、……その大杉君にも、たった一つ不器用なことがあった。……歌を歌うことだけは非凡に下手だった。

 大杉は人を惹きつける。「借り倒しの名人」だが、「ほんとに大杉君を恨んでいる人はないだろう。ぶつぶつ言いながらも、その実もっと借り倒されたい気持ちがしたらしい」とも。
 子どももなついた。ギョロリとした眼は、おとなには「不穏」でも、子どもには「穏やかな光」だった。

 大杉君は「多数決」が大嫌いであった。これは大杉君の理論から来たように、恐らく大杉君の性格から来ておった。大杉君は色々の意味において「非凡」であった。大杉君自身が、平凡な「多数決」の拘束を欲しなかったように、ほんとに大杉君を知る者には、大杉君を「多数決」に従わせ、大杉君を「多数決」で拘束するのは惜しかった。……

 元妻・堀保子(1879〜1924)。
「小児のような男」

「天下に怖いものなしの大杉君もアナタだけは本当にこわいとみえる」と、そばにいる人はみな笑ったほどである。私は彼に対して非常なうらみを持っていた。と同時に道ばたの石ころのようにも思われなかった。何かの噂のある場合にも、第一に気になるのは彼のことであった。そして無事を祈らないではいられなかった。「お互い最後の時には、誰が後れても、先だったものの柩の前に座ることは遠慮すまい。そして思うまま昔のことをくり返そうじゃないか。別れても別れないのと同じことだ」などと言い合ったこともあったが私がとうとう彼の前に座る時が来た。……


 賀川豊彦(1888〜1960)。
「可愛い男大杉栄
 初対面は大正9年(1920)秋、銀座パウリスタ改造社主催の会。大杉は朝監獄から出たばかり

 大杉君は第一印象から「可愛い」人だと思った。その顔は淋しい濁った輪郭がないでもなかったが、少しも憎らしいところを発見しなかった。快活で、明け放しで(自分の性欲生活までも少しも隠しだてしない)、賢い人だと思った。……

 翌日、賀川が演説中に弥次る男がいる。演壇に近づいて来た。大杉だった。

「僕の話が済むまで待ってくれたまえ、話は後でしようや」と言うと、「いやだ、ここで、話したい」と言う。……

 賀川が演壇を譲った。聴衆は驚く。十数分話したところで、警官が中止命令。
 その後、大杉は賀川について書く。「カガワ」と書かず「バカガワ」と書き、「無抵抗主義」を罵り、「偉大なる馬鹿」と。

 しかし大杉の馬鹿呼ばわりは、私には少しも悪感を催させなかった。なぜなら、大杉は人を馬鹿という代わりに、人の善いところもよく知っているからであった。僕をぼろくそに言うておいて、ひょっこり神戸の私の宅へ大杉君は訪ねて来る。大杉君は一度は一人で、一度は魔子ちゃんをつれて私の宅へ来てくれた。
……彼は常に理想主義的で、反マルクスであったことは疑うことができない。彼が理想主義であったところは彼がレニンに楯つく勇気を持ち、常に少数でありながら、彼の理想に突進する勇気を持っていたことを見てもわかる。そこいらは私と大杉君との近似値のあるところかも知れない。……

◇ うみふみ書店日記 
 9月11日 水曜
 元出版営業マンで、今は出版社を主宰するUさん。成績好調。
(私)「もっとはよわかってたら、助けてもらうのに……」

 
 顧客で、いつも楽しくお話してくれるご老体。今日は怒ってはる。
「わし、義憤を感じる。ここがわしの体質におうてんねん。どこで買え言うねん!」
 ごもっともです。
 
 吉祥寺RのHさん、人気美女作家と共に来店。店内をスケッチして、フリーペーパーを作成してくれるそう。ありがとうございます。
 作家さんにサインもらった。私も厚かましくサインした。V!
(平野)