週刊 奥の院 8.29

■ ランボオ詩集』 中原中也訳  岩波文庫 700円+税 
解説・宇佐美斉 
 



……
 京都時代の中原中也が、たまたま同地に滞在中の富永太郎(一九〇一〜一九二五)と出会い、彼から「仏国詩人等の存在を学」んだのは、一九二四(大正十三)年夏のことであった。その後まもなく、『上田敏詩集』(玄文社、一九二三年刊)を入手して、以降少なくとも三回にわたり敏訳の「酔ひどれ船」を筆写している。もっとも中原がランボーの存在を初めて知ったのは、前年秋、丸太町橋際の古本屋で購入した高橋新吉(一九〇一〜一九八七)の『ダダイスト新吉の詩』(中央美術社、一九二三年刊)によってであろう。辻潤(一八八四〜一九四四)による同書の跋文に「ランボウ」への言及が見られるからである。いずれにせよ、」中原の詩的出発にランボーの名がつきまとっていたこと、そしてそれ以降の一〇年余が、詩人としての創作活動に捧げられたものであると同時に、ランボーを初めとするフランス近代詩への旅でもあったことは、紛れもない事実である。
(1925年3月、中原は長谷川泰子と上京。富永の紹介で小林秀雄と知り合う)
……いよいよ「詩に専心する」決意を固めると同時に、フランス詩への関心を高め、負担スゴ習得のやめの手だてをあれこれ模索することになる。泰子が小林のもとに奔ったのと富永が死去したのは、その歳の十一月であったが、翌年そうそうには富永の親友正岡忠三郎から、原書の『ランボー著作集』を譲り受け、秋からいよいよアテネ・フランセに通い始めるんもである。さらに一九三一(昭和六)年四月に、東京外国語学校専修科仏語に入学、以後三年間はフランス語の学習に余念がなかった。そしてその熱意はついに彼の死にいたるまで衰えることがなかった。……

 中也は「ランボー詩集」を3度出版。 1933年三笠書房ランボオ詩集《学校時代の詩》』、36年山本書店『ランボオ詩抄』、37年のだ書房『ランボオ詩集』。
 中也が散文詩に限定したのは、すでに小林が『地獄の季節』『イリュミナシオン』を訳していたから(1930年白水社『地獄の季節』)。

……当初から「棲み分け」を意識してランボーに取り組んだようである。


 この詩がなんとなく。
「わが放浪」
私は出掛けた、手をポケットに突つ込んで。
半外套は申し分なし。
私は歩いた、夜天の下を、ミューズよ、私は忠僕でした。
さても私の夢みた愛の、なんと壮観だつたこと!


独特の、わがズボンには穴が開(あ)いてた。
小さな夢想家・わたくしは、道中韻をば捻つてた。
わが宿は、大熊星座。大熊星座の星々は、
やさしくささやきささめいてゐた。


そのささやきを路傍(みちばた)に、腰を下ろして聴いてゐた
あゝかの九月の宵々よ、酒かとばかり
額(ひたひ)には、露の滴(しづく)を感じてた。


幻想的な物影の、中で韻をば踏んでゐた、
擦り剥けた、私の靴のゴム紐を、足を胸まで突き上げて、
竪琴みたいに弾きながら。


(平野)
日記は明日まとめて。