週刊 奥の院 7.22

■ 新海均 『カッパ・ブックスの時代』 河出ブックス 1500円+税 
 著者は、1952年長野県生まれ。75年光文社入社して「カッパ・ブックス」2年、99年から6年担当。
カッパ・ブックス」誕生は1954年。教養主義の「岩波新書」に対して、「アンチ教養主義」を掲げ、無名の著者で新たな読者を掘り起こした。神吉晴夫のプロデュースで、多くのベストセラーを送り出した。
「誕生のことば」

 カッパは、日本の庶民が生んだフィクションであり、みずからの象徴である。
 カッパは、いかなる権威にもヘコたれない、非道の圧迫にも屈しない、なんのヘのカッパと、自由自在に行動する。……

 スマート、新鮮、廉価、読むものの心を洗い、生きる喜びを感じさせる……と続く。
 カッパがラッパを吹いている絵がシンボル。「カッパ・ブックス」「カッパ・ノベルス」でミリオンセラーが17冊ある。
『英語に強くなる本』(1961年、147万部)、『頭の体操 第1集』(67年、265万部)、『姓名判断』(67年、125万部)、『点と線』(58年、104万部)などなど。61年には、年間売り上げベスト10のうち5冊を占めた。
 
 新海は2005年、最後の「カッパ・ブックス」編集部員となった。
カッパ・ブックス」とは何だったのか、どのようにして生まれ、成功し、消えざるをえなかったのか?
 
 神吉は1901年兵庫県印南郡(現・加古川市)生まれ。東京外国語学校、東京帝大卒業後、27年「大日本雄弁会講談社」入社。海外広報の仕事でアメリカの雑誌広告に学び、傘下の新聞社・飲料会社・製薬会社で宣伝・広告・販売業務。さらにレコード会社でプロデューサー。出版の仕事は38年から。満洲にも派遣された。敗戦後、講談社は戦争協力で活動停止になることを恐れ、子会社を「光文社」として発足させた。早速創った雑誌は民主主義を称賛するもの。神吉は常務。旧陸軍の印刷用紙を溜め込んでいたので、雑誌を次々に創刊。単行本、名作文庫も出版。しかし、49年不況で危機に。光文社を救った本は、南博『社会心理学』、2万部。続いて『人間の歴史』全6巻、計120万部。波多野勤子『少年期』に神吉は感動。宣伝方法として、有名人300人に贈呈。「朝日」に絶賛記事が出たところで、広告費を投入して、40万部。

 全く無名の学者の原稿に感動し、自分自身が烈しく燃え上がったのだ。宣伝の重要さを知り、無名であることの大切さを知り、世の中をお騒がせすることの面白さを心底知ったのである。
「創作出版」への萌芽である。

 創業6年目、人気作家・伊藤整から原稿を受け取る。単行本には枚数不足。神吉は以前から考えていた軽装版シリーズを思い立つ。
 神吉の回想。

 ○○新書というような、岩波新書のものまねは、なんとしても出したくなかった。
(名前を考える。海外の廉価版を調べる。家に清水昆のカッパの絵があった)
……私は思わずうなった。カッパこそは、日本の庶民が生み出した最高のフィクションではないか、天上天下を、自由自在に、裸で飛びまわる想像動物ではないか。これはいい、これでゆこう。……

 ラッパは軍隊を連想するので、角笛(ラッパではなかった)。カッパが座っているのは石。「石の上にも三年」。
 54年1月、伊藤の『文学入門』と、中村武志『小説 サラリーマン目白三平』でスタートした。

「ノベルス」は続いている。シンボルの「カッパ」は読書している。しかし、一部昔のデザインのまま使われている。
 デザインが落ち着いていないことは同社の「何か」を象徴しているのか?

(平野) 
 変則「光文社」三連発。
 
 ずっとお世話になっている古書店ロードス書房」さんが8月末日をもって閉店される。目録販売・ネット販売は継続。事務所未定。
 目録「ロードス通信」第35号に詳細。