週刊 奥の院 7.21

■ 内田樹 『修業論』 光文社新書 760円+税 
「修業」……まず「辛抱」という言葉が思い浮かぶ。
 封建制度伝統芸能・工芸、徒弟制度、師弟関係、職人、技の継承、免許皆伝、難行・苦行……。
 近代的合理主義とは相容れないもの。

 修業というのは「いいから黙って言われた通りのことをしなさい」というものですけれど、いまどきの若い人たちには、そんなことを言ってもまず伝わりません。どんなことについても、「その実用性と価値についてあらかじめ一覧的に開示すること」を要求しなければならないと、子どもの頃から教わっているからです。
 これは「消費者」として当然のふるまいです。消費者は商品については必ずそのスペックを要求しますから。商品を手に取って、まず訊くのは「これは何の役に立つのか?」ということです。そう訊かれて「使ってみればわかる」と答える売り手はいません(いても、誰もそんな「商品」は買ってくれないでしょう)。
……家庭でも学校でも、あらゆる機会において、子どもたちは何かするときに「これをするとこれこれこういう『善いこと』がある」という説明を受けて利益誘導されています。

「努力」は「報奨」があってこそするもの。それも最小限の「努力」で最高値の「報奨」をもとめたがる。「命令」に従うこともあるが、それは従わなければ「損をする」という判断から。

 修業はそれとはまったく別物です。
「いいから黙ってやれ」ということを師匠は言いますが、言われたことをやらなかったからといって、必ずしも「罰を受ける」ということはありません。逆に、言われたことをやったからといって「ほめられる」わけでもありません。
(できないと殴るという師匠もいるが、それは弟子のレベル――殴られたくないなら努力したほうが得という低レベルの合理性――に「合わせている」。内田はこの師匠には否定的だ)
 師匠は「いいから黙ってやれ」と言うだけです。同じことを延々と繰り返しやらせることもあるし、そうかと思うと、まだ出来ていないはずなのに、「じゃあ、次はこれ」と新しい課題を与えることもある。処罰も報奨もなし。批評も査定も格付けもなし。それが修業です。

 武道の修業では、習得したことは実際に「できた」後になってはじめて、自分が「何をした」のかがわかる。修業の成果を修業開始に先立って開示することは不可能。
「トレーニング」とも違う。

 合気道歴40年の内田にとって「修業」とは?  師の言葉を引く。
「道場は楽屋であり、道場の外が舞台である」
 楽屋=実験室、失敗がつきもの。舞台=真剣勝負の場。
 内田にとっての「真剣勝負の場」は、日々生業(なりわい)を立てている「現場」――教育活動、執筆、企業経営。
 その「舞台」で十分なパフォーマンスを果たし得ることをめざして、道場での稽古はなされなければならない。
「舞台」で失敗しても命を取られることは現代では起こらないから、その失敗を稽古に活かすことが可能。失敗したら、合気道の稽古の仕方が間違っていたからだ、と考える。
 稽古で身につけるべき能力は、「実践的な意味での生き延びる力」――生き残るため「わずかな兆候から次に起こりそうなことを予見する能力」。
それに、「集団をひとつにまとめる力」――「他者と共生する技術」、「他者と同化する技術」。
 自ら「弱い武道家」と公言――「厭なことに我慢できない」という点で、超人的に弱い。我慢すると発熱し、脈拍が上がり、手足が震え、発疹……寿命が縮まる。だから、「厭なこと」の気配を察知して合わないように工夫してきた(=予見能力)。幼児期に心臓疾患があり、運動能力が発達する時期に適正な訓練を受けることができなかった。

 私は「強くなりたい」と思って合気道に入門したわけではなかった。むしろ、私自身の弱さがもたらす災禍を最小化するため(原文傍点)に入門したのである。

(平野)
 私、ある本の書名の言葉(まさにその本のキーワード)の意味を尋ねられて、「読めばすぐわかります」と答えた。不親切な売り手。