週刊 奥の院 7.14

■ 大泉黒石 『黄(ウォン)夫人の手  大泉黒石怪奇物語集』 河出文庫 760円+税 
 大泉黒石(本名・清、1893〜1957)、長崎生まれの作家。父はロシア人外交官、母は日本人。ロシア名、アレキサンドル・ステパノヴィッチ・コクセーキ。
 母は生後すぐに死亡、長崎で祖母と小学3年まで暮らす。漢口に赴任していた父を頼るが死別。叔母とモスクワ。パリ、スイス、イタリアを経て長崎で中学卒業。再びロシア。革命で帰国、京都三高。
 1917年上京。職を転々として小説家。『中央公論』滝田樗陰に認められ、19年「俺の自叙伝」連載。自称〈国際的居候〉。
 俳優の大泉滉は三男。1988年『大泉黒石全集』全9巻(緑書房)刊。
 由良君美の解説、初出は『ユリイカ』1970年10月号「無為の饒舌――大泉黒石素描」。
 大正末から昭和の初めに精力的に活動したが、文壇から消える。

……それでいて、第二次世界大戦後の昭和三十二年まで横須賀の一隅に雑草のように生き延びて、独自のニヒリズムをひたすら築き、ひたすら深化させて死んでいったアレキサンドル・ステパノヴィッチ・コクセーキ――邦名大泉黒石の生涯は、まことに〈束の間の騎士〉のそれであった。
(大泉はゴーリキーを愛した。その登場人物たちは〈束の間の騎士〉。ゴーリキーは革命待望の詩「海燕の歌」を歌えた)
……だが、わが大泉黒石には、海燕となって近づく嵐の予感を唄う道は拒まれていた。いちずに〈束の間の騎士〉の在りかたを日本の文字に彫琢して生き抜く他になかったのである。関東大震災軍国主義国家主義、やがて日中戦争を経て太平洋戦争の破局へと、ひた走りに走った日本の環境のなかで、彼のような才能と体質をかかえて節を通そうとすれば、海燕の予感に痺れていることは許されなかったのである。その〈無為〉の哲学には意外に野太い支柱が通っており、その〈饒舌〉のレトリックには意外に錯綜した陰影の襞がたたみこまれており、滑稽の鎧の影に、スケールの大きな痛みをかかえていたことを、マヤカシ屋として大泉黒石を文壇から一挙に抹殺した連中は、まったく理解していなかったのである。……

文学史」に黒石の名は出てこない。
目次
戯談(幽鬼楼)  曾呂利新左衛門  弥次郎兵衛と喜多八  不死身  眼を捜して歩く男  尼になる尼  青白き屍  黄夫人の手
表題作「黄夫人の手」。
 長崎の中国人街、遊郭が集まる地域。近くに住む藤三は中学5年生。同級生・黄が学校に来なくなり、月謝の催促に行かされる。黄家で応対したのは日本人の母(後妻)。翌日受領書証届けると、父親の一周忌。墓参りに同行。
 しばらくして黄の伯父が家に来て、黄家の秘密と悪口。黄の実母は〈窃盗狂〉で死罪になった。役人が右の手首を切り取った。それが家から失くなってしまったと言う。
 藤三は自分の月謝を工面するため本を売りに行くが、不思議なことに栞には「黄夫人」と書かれてある。古本屋からもらった買受証をあとから見ると「黄夫人」宛になっていた。家に戻って金を机のひきだしに入れようとすると、中に女の手首があった。

 ……それを藤三の幻影に過ぎないと仰有る方もありましょうが、幻影だとすれば物凄い幻影ではありませんか。それは学者の説によりますと、手首の部分を内屈とか、腕関節とか言うそうです。藤三が摑み出した女の手首は、ちょうどその辺から鋭利な機械で切断したようになって、滑らかな羽二重のような皮膚がだらりと伸びて、その切り口を蔽っていました。色の褪めてぼやけた死人の手とは事変わって、それは、さながらに桃色の血がどくどくと脈を打っているようでした。形は大きくないけれども、小さいなりで華奢に出来ているのです。……

(平野)
 河出はエライ! ほかにも、いっぱいエライ!