週刊 奥の院 7.1

■ 加賀乙彦津村節子の対話 愛する伴侶を失って』 集英社 1200円+税 
 同年代の作家二人、通った学校(加賀の中学と津村の女学校)は新宿の近く、読書体験も重なる。
 作家としてのスタートは吉村・津村夫妻が早い。賞の候補には挙がるが受賞にはいたらなかった。津村の芥川賞は1965年。吉村は翌年に太宰治賞。このとき加賀が次点だった。97年の芸術選奨文部大臣賞は加賀と津村が同時受賞。


「自伝的作品」でも「夫婦小説」でもフィクションが入る。読者はすべて事実と思ってしまう。

【津村】「あれはフィクションです」と言ったら、「作家ってうそつきですね」と。
【加賀】それはもう、大うそつきです(笑)。……うちの女房は僕の小説を読まなかった。なぜでしょうね。朝から晩までバイオリンを弾いたり、音楽を聴いたりしていましたが、僕の小説は読んでいないようでした。読まれないほうがいいですけどね。
【津村】それはそうですよ、読まれたらたまらないわ。冗談じゃありませんよ(笑)。
【加賀】「読むな」とは言っていないけど、向こうが勝手に読まないでいてくれたので助かりました。
【津村】それは暗黙の了解ですよ。うちはお互いに読まないことになっていました。吉村はおそらく私の「玩具」も読んでいないと思います。

 津村は夫をエキセントリックに書いた。

 
それぞれの伴侶の死について。
 津村は『紅梅』で夫の最期をほぼそのまま書いた。彼は自宅のベッドで点滴の管をはずした。娘がつなぐが、彼は「もう死ぬ」と胸からカテーテルをひきむしった。駆けつけた看護師の処置も拒んだ。津村は涙声で「もういいです」。娘も「もういいよね」。
 加賀が追悼文を書いた。「見事な自然死」。
 津村は夫の死後、加賀を訪ねた。作家仲間ではなく医者としての加賀に頼った。

【津村】「どうしました?」とお医者さんの顔でおっしゃったの。私、あのとき本当に加賀さんのところへ来てよかったなと思いました。友達に言ったって、誰に言ったってだめなんです、ああいうときは。

 津村はカトリック信仰者の加賀に質問した。奥様にあちらで会えると思っているか、と。
 加賀の妻は自宅で突然死、クモ膜下出血だった。
 加賀は「会える」と答えた。
「(天国とか彼岸とか)あるかどうかわからない。わからないけれども、あるということに賭けなさい」
 津村は、信仰をもつ他の作家たちにも同じことを言われた。しかし、
「どうしてもそう思えない」。
 

 今、夫の未発表作品をまとめている。回顧展、ドラマ化・映画化の許諾もある。自分の仕事よりも多い。

【津村】あの世で会えるものならやはり吉村に会いたいと思います。私は、あちらで会えるとは思っていないんですけどね。
 でも吉村が死んでから、死ぬのが怖くなくなりました。もういいや、という感じなんです。


 信仰深い加賀も「気持ちの整理」はつかなかった。睡眠剤も飲んだ。いつもの教会に行くたびに思い出すので、別の教会に籍を移した。妻は繰り返し夢にも出てくる。
 津村は夢を見ない。

【加賀】人間の力の及ばないことはたくさんありますから。だって人間、なぜ生まれるかわからないんですよ。誰の子になるかもわからない。死も、いつ訪れるかわからない。もう仕方がないと思いました。
【津村】そう思えばいいんですね。私は仕方がないと思えないからつらいんです。息子と娘がいるから生きているんです。

(平野)