週刊 奥の院 6.23
■ 塩澤幸登(しおざわゆきと) 『雑誌の王様 評伝・清水達夫と平凡出版とマガジンハウス』 河出書房新社 3000円+税
著者は1947年生まれ、70年平凡出版入社、編集者。2002年から作家活動。『平凡パンチの時代』『「平凡」物語』他、ノンフィクション作品多数。
序 かつてこの地上に雑誌の王様というべき編集者が存在した
[雑誌の王様]の名前は清水達夫、天才的編集者である。
王国の名前は平凡出版。相棒は創業者の岩堀喜之助。
王様はその旗下に優秀な将軍たちを揃え、王国は繁栄を誇っていた…。
1945(昭和20)年8月末、平凡出版創業。発足当時の社名は「凡人社」。
清水達夫(1913〜92)は戦前「電通」で雑誌を編集、戦中は「大政翼賛会」。そこで知り合ったのが岩堀と菅原。彼らが用紙の配給権を譲られて雑誌創刊を思いつく。
「ザッシヲイッショニヤラナイカ」
創業メンバー5人、編集実務経験者は清水だけで編集長、あとの4人が編集委員。役職に区分がなく、ニックネームで呼び合った。
11月『平凡』(12月号)創刊。「平凡」の名称は「平凡社」から無償で譲ってもらった。内容は娯楽読み物雑誌(社会評論もあった)。映画と流行歌の雑誌になるのは48年2月号から。
(帯)
百五十万部雑誌の『平凡』 百万部週刊誌『週刊平凡』
疾風怒濤の『平凡パンチ』 お洒落女性誌『アンアン』
格好いい男性誌『ポパイ』 懐かしい女性雑誌『オリーブ』
情報整理専門誌『ダ・カーポ』
『クロワッサン』『ブルータス』『ターザン』『Hanako』
すべて本書の主人公 編集者・清水達夫が創刊した雑誌です
「平凡出版」の知名度はあがらなかった。出版社の知名度はやはり硬派の書籍出版社が上。しかし、「平凡出版」は確かに出版界を牽引してきたし、それぞれの雜誌が読者に受け入れられた。
本書で、井上ひさしと筑紫哲也の対談が再録されている(『朝日ジャーナル別冊 雑誌の世界 1200冊を読む』1985年)。
【井上】編集者のいちばん大きな仕事というのは観察の角度とか物差しを変えることによって、いままで見慣れていた世界がパーっと変わっちゃうみたいなことだと思うんです。……観察する位置を変えることによって、世の中をもう一回再編成して、隠れたところを読者にビシッと見せていく。それは大変な創造だと思うし、編集者には、物書きとか新製品の開発に必死になってリーダーシップをとっている人たちと同じような創造性があるような気がしますね。
【筑紫】(編集者、書く側の両方をやってきて)優れた編集者というのは確かにいるんですね。例えば、戦後の雑誌は大ざっぱないい方をすれば、平凡出版、今のマガジンハウスが作ってきたと思うんですよ。で、集英社とかのメジャーがそれをフォローして、ブラッシュアップすることによって雑誌が広がっていった。だから、いわゆるマスマガジンのスタイルは、マガジンハウスがずいぶんつくってきたと思う。
(同社の編集者たちの名前をあげ、彼らの雑誌のつくり方――独特な仮説を組立ながらつくり、違うと思ったら別の積み木でまた組み立てるというくりかえし――を分析)
【井上】(「仮説」はかれらの趣味でできている)優れた編集者というのは自分の趣味を持っていて、それをこつこつ磨いている。その表現が雜誌の編集になる。そう単純に考えることにしているんです。(趣味は世界観と言ってよい)
雜誌の知名度と会社の知名度に大きな差があった。
「マガジンハウス」に改名したのは83年9月。
塩澤が紹介するエピソード。当時『ブルータス』編集部の某氏(現在は独立して『ソトコト』発行)のこと。
……泣きわめくように「オレはマガジンハウスなんてイヤだ、いつまでもずっと平凡出版の社員だ!」と叫んでいたのを何人の人間が覚えているだろうか。そもそも本人は覚えているだろうか。
(平野)