週刊 奥の院 6.12

■ 中野明 『グローブトロッター  世界漫遊家が歩いた明治ニッポン』 朝日新聞出版 1900円+税 
 開国直後、日本を旅した外国人たちがいた。仕事とか何かの役目・義務で滞在するのではない。西欧の人たちにとって“謎の国ジパング”は憧れの地だった。彼らが残した膨大な記録から「ニッポンの姿」を見る。
 18世紀イギリス貴族の子弟たちは、「教養の確立という目的のもと、ギリシア、ラテン精神の源流を求め、芸術の国イタリアを目指した。」(中島俊郎『イギリス的風景』NTT出版
「グランド・ツアー」という旅の文化。
 旅を介在させた〈知〉のネットワーク――人と人の出会い=交友関係が学際的な研究へと発展していく。(中島、同書)
 旅行記の存在も忘れてはならない。「イタリア旅行記の類はエリザベス朝時代(16世紀)から書かれていた。」(中島、同書)
 グランド・ツアーはナポレオン戦争でいったん下火になるが、戦乱が治まるとヨーロッパ諸国、アメリカの若者にも広がる。蒸気船、蒸気機関車の登場でさらに普及し、旅の範囲も拡大する。イギリスの旅行業者、トーマス・クックが世界一周旅行を企画したのは1872年。同年フランスではジュール・ヴェルヌ八十日間世界一周新聞連載開始。新聞の売り上げは上昇し、大手船会社が広告提案(自社の船を登場させる、ヴェルヌ拒否)したほど。単行本は10万部突破、劇化された。
 中野は、ヴェルヌの筆力に加えて、ヴェルヌが選択した「世界一周」というテーマの良さに注目する。

 世の中の旅行事情の変化をたくみにとらえて、「世界一周」をテーマにした小説、すなわち商品を投じたわけである。両人とも時代を見る目があった。

 19世紀後半、「世界のあちこちを頻繁に旅行する人々」=「グローブトロッター(globetrotter)」=「世界漫遊家」が登場する。彼らの旅行記によって、多くの人がまた旅に誘われる。
日本にもやって来た。
ラジャード・キプリング、1898年来日。インド生まれのイギリス人新聞記者。イギリスに帰国するときに日本、アメリカ経由で。インドの新聞社に紀行文を寄稿する約束。『ジャングル・ブック』の著者。1907年ノーベル文学賞受賞。

トーマス・ブラッセ、イギリスの政治家。大富豪で、1876年7月自家用船で世界一周の旅に出て、日本には翌年1月到着、総勢43名。夫人が世界一周旅行記

アルバート・トレーシーアメリカ人医師、1881年7月来日、中国、ビルマ、インド、中東、エジプト訪問。いまで言うバックパッカー、ガイドなし単独で僻地旅行。日本放浪の記録を出版。

ネリー・ブライアメリカ人女性ジャーナリスト。ヴェルヌの「80日間世界一周」に挑戦。1890年1月2日到着、滞在5日間。

ヘンリー・サベッジ・ランドー、イタリア生まれのイギリス人画家。幼少期に読んだ旅行記で冒険心に目覚めた。絵の修業でヨーロッパ、中東、アメリカなどを旅行。各地で肖像画を描いて稼ぐ。1889年8月横浜着。旅先で風景画を描き、東京では著名人の肖像画。観光地訪問だけではなく、各地を放浪し蝦夷地一周も。食料もテントなく、アイヌの家々で寝泊りする。ケンカはするし、事故で大怪我もあった。先々の人々や風景の絵を残している。
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 有名なのはイザベラ・バード1831年イギリス・ヨークシャー生まれの旅行家、紀行作家。合計3回来日。『日本奥地紀行』は欧米人が足を踏み入れることがなかった東北・蝦夷地を女性が旅した記録。
 中野は、従来とはちがう観点から彼女の旅について述べる。
 まず、冒険旅行ばかりしていたのではない。確かに1878年5月から9月にかけて東北・北海道を訪れているが、このあと、神戸、京都、奈良、伊勢などを訪問して帰国している。彼女の原著(1880年)にはすべて記録されているのだが、最初の日本語訳(1973年)は「省略版」(1885年)から訳したもので、関西旅行が入っていない(現在は『完訳版」が出版されている)。中野は、「伊藤」という通訳兼ガイドに注目する。彼の存在はバードの「奥地旅行」に大きな役割を果たしている。
 もうひとつ、彼女以上に冒険的な旅をした人物がいた。さきのランドーがいるし、バード以前にも蝦夷を旅した外国人たちがいる。
 明治末には自動車が登場する。エセル・マクリーンというアメリカ人女性1912年4月に自動車をチャーターして横浜から鎌倉、箱根に小旅行。翌日横浜から帰国。彼女の旅行記には自動車から眺めた交通手段が書かれている。徒歩、馬が引く荷車、人力車、駕籠。「明治ニッポン45年間における交通機関のパノラマ」。当時は電車もできている。
 中野は最後にグローブトロッターたちの「旅の満足度」についても考察している。
(平野)