週刊 奥の院 6.2

■ 瀧口夕美 『民族衣装を着なかったアイヌ  北の女たちから伝えられたこと』 SURE 2500円+税 
 
 1971年、北海道阿寒湖畔のアイヌ・コタン生まれ、父は和人、母は十勝出身のアイヌ。編集者。


 私は、初対面などで出身地を聞かれるのがあまり好きではなかった。また、端的に「日本人?」と聞かれるのも、面倒だった。私自身の中でさえ整理がついていないこと――アイヌとは自分にとって何かということ――に、その質問は、簡単に近づいていくからだ。相手が北海道出身の場合、よけいに面倒に感じた。私の風貌からアイヌだとわかる人もいる。「阿寒湖」と出身地を聞いて、それ以上の質問をやめる人もいる。たいがいは、アイヌについてあまり知らないが、距離を置いているように見える。「阿寒湖? 行ったことがあるよ。あそこ、あやしげなアイヌの村がない?」なんてはっきり言うのは、道外の人だ。そのくらいのほうが気が楽だ。
 しかし、つぎにありうる質問は、「もう純粋なアイヌはいないんだよね?」とか、「アイヌの人たちって、今は日本人と変わらない、普通の暮らしをしているんだよね?」だ。「うん」と答えつつ、私の中には釈然としない感覚が残る。「純粋」とは、どういうことなのか。血筋なのか、古来の慣習に従っているかどうかを指すのか。また、純粋なアイヌだとどうだというのか。アイヌは今は日本人と同じ暮らしをしている、というのは、どこから知るんだろう。同じかどうか確認するのは、もう未開の野蛮人とは違うんだよね、と言いたいのだろうか。「同化政策」のことを聞きたいのだろうか。また「日本人と同じ暮らし」とはどんな点でか。アイヌ語を話さず、アイヌの文化を棄てた暮らしのことだろうか。会社に就職して、給料を得る暮らしを指すのか。一つの質問が、私のなかでは複数の方向に広がって、答えられなくなってしまう。


 瀧口が育った環境は「アイヌの伝統的な暮らし」ではない。しかし、両親は「観光地に居を定め、そこで彫刻作品やみやげ物を売って生計を立ててきた」。瀧口は「観光客たちの好奇心に対して、アイヌとしての自分の身をさらす」ことに屈辱的な気持ちをもってきた。心にわだかまりをもったまま生きてきて30数年。帰省したときに母に訊ねた。
「ママは、どうしてここにいるの?」


まえがき 「今はもう日本人なんでしょう?」
第一章  どうしてここにいるの?――母・瀧口ユリ子のこと  オジジのトゥイタクを聞くまで  北海道旧土人保護法――私の祖先の場合  「同化政策」というけれど  牛のおじさん  見ることと、見られること――おみやげと観光
第二章  故郷ではない土地で――ウイルタ・北川アイ子さんのこと  オタスで暮したころ  私は自分をウイルタでも日本人でもなくした  ソ連時代の暮らし  引き揚げる
第三章  鏡のむこうがわへ――サハリンの女たち  海を渡る  国境があった場所で
第四章  鉄砲撃ちの妻――長根喜代野さんのこと  アイヌ、自分との距離  狩猟と夫婦げんか  お風呂でのトゥイタク
あとがき 私たちの歴史
解説  「違う」と「同じ」のあわいをたどる  山田伸一

 
 瀧口の心境が変わりはじめるきっかけのひとつは、母の祖父=オジジが残した録音テープ。「キムカムイ(熊の神さま)の話」。オジジは漁師、和人の世の中になるからそれについて行けるようにとアイヌ語を教えようとしなかった。母を厳しく育てた。母は中学を出て洋裁を習っていたが、働き口を世話してくれる人がいて阿寒に来た。オジジが阿寒を訪ねてきたときの録音。

・・・・・・意味はわからないのに、オジジの人柄がさきに伝わってきたような気がした。幼い母に激しく怒鳴りちらすオジジと、母に戻ってこいと言いに来たオジジが、その声で一つの人格になっていた。オジジは自分の声を、自分でどのように聞いていたのだろう。その声は、かえって私に親近感を覚えさせた。

 母からオジジ、曽祖父の世代の話、さらに関係をたどって女性たちに聞き書きを重ねる。
 アイヌが言葉も土地も習慣も奪われ、差別抑圧されたこと、それらを跳ね返して誇りを勝ち取ったこと。「それはいわば外向けの語り」と言う。少数民族=被抑圧者という受身の存在と、生活者としての主体もある。「そういう多重性のもとで、個人の歴史というのは紡がれているのではないか」と考える。
 女たち、先輩たちが「私に教えよう、残そうと語ってくれた」言葉の記録。

(平野)
 ABCテレビ「LIFE〜夢のカタチ〜」で紹介された、青山大介『港町神戸鳥瞰図』(くとうてん)、おかげさまでお客さん続々。限定版(付録付き、3000円+税)、版元在庫僅少になったそうです。
【海】でのサイン会の様子も映りました。
 
 HP更新しました。 http://www.kaibundo.co.jp/index.html

 6.1 【海】は創業99年を迎えました。