週刊 奥の院 5.26

■ 『子どもたちに伝えたい 灘の歴史』 田辺眞人監修 灘区80年史編集委員会編 神戸新聞総合出版センター 1200円+税
 2011年出版『灘区の歴史』を小学生でも読めるようにわかりやすくした。
 北は六甲山系、南は大阪湾、古代から水陸交通の要所で、遺跡・史跡が多く残る。現在も多くの文化施設・学校が集まる地域。
 莵原処女(うないおとめ)の伝説や「敏馬(みぬめ)の浦」は万葉集に歌われた。
 六甲・摩耶は仏教の霊場
「灘」が全国ブランドになったのは江戸時代後半。六甲の水と丹波の米による灘五郷の酒、「灘の生一本」。また、六甲から流れ出る川は急流で、それを利用した水車で菜種油や素麺製造。
 明治になって、欧米人が六甲山を開発、スポーツ・レジャーが普及し、彼らの食習慣によって、菜園が作られ、精肉、牛乳製造も取り入れられた。
 1929年、西郷村・西灘村・六甲村が神戸市と合併、31年「灘区」になった。当時の人口8万6千人。
 昭和の大水害、空襲で大きな被害。
 戦後、神戸港拡張に伴い埠頭。六甲の山を削り住宅造成、削った土で海を埋め立てポートアイランド六甲アイランドになった。神戸市の土木は、「山、海へ行く」と言われた。
 95年、阪神・淡路大震災。灘の被害は大きかった。今、住民によるまちづくりが進んでいる。
 現在の人口は13万5千人、区の花は「マリーゴールド」、区の木「桜」、区の歴史の花「菜の花」。
 表紙の絵(慈憲一・うつみけんいち)は、与謝蕪村の句、「菜の花や 月は東に 日は西に」をモチーフにしている。この句は蕪村の故郷・淀川岸の風景を詠んだもの。
 蕪村は灘の造り酒屋に招かれ俳句指導をしている。摩耶山の菜の花を詠んだ句。
「なのはなや 魔爺(まや)を下れば 日のくるゝ」

 街をいろどる自然、街の生いたちから現在までの歴史を紹介。本書を通して、子どもたちが学び、調べ、考えて、街に親しみをもってもらえたら、と監修者。
 
(平野)