週刊 奥の院 5.16

■ 講談社文芸文庫編 『追悼の文学史』 講談社文芸文庫 1500円+税 
 追悼を捧げられるのは6人。
 佐藤春夫高見順広津和郎三島由紀夫志賀直哉川端康成
 追悼文は『群像』に掲載されたもの。
 三島由紀夫への文章。
 瀬戸内晴美 奇妙な友情
 三島からの手紙は10通ほど。三島が自殺する日の午前中、全く偶然に三島からの古い手紙を書庫で見つけた。昭和29年、瀬戸内の処女作「痛い靴」に対する批評。
「平凡で新鮮味がなく、失望した・・・・・・」
 厳しいが、親切で心のこもった手紙。
 その午後、

・・・・・・テレビでこの目で、三島さんの演説する姿を見ていながら、私はこれが現実のこととは信じることが出来ず、ショックはこの上もなく大きかった。文士劇か、お道楽の映画の一齣であってくれと願った。それは悲しい漫画だった。・・・・・・
 あれから二週間が経った。受けた衝撃は今尚薄れず、日と共に何か思いものを心の底に澱ませていく。黒い雪が心の中に日もすがら、夜もすがら降りつづけているような気がする。
 事件に関する情報は後から後から尽きないほど報道されつづけている。しかし、いくら情報が山と集められたところで、真実のことはわからない。判らないことが多すぎる事件だ。
・・・・・・わからないことだらけで、どう納得のしようもない事件を他所に、三島さんの作品だけは仮面をかぶりきれない姿で遺されているように思われる。
 所詮作家にとって作品を書くということは、蚕が命の糸をはきだしながら繭をつむぐように、やがては完成された金色の繭が蚕の墓となるのと同じで、作品のひとつびとつはやがて迎える滅びの仕度であり、墓標の石積みなのではないかと思う。・・・・・・

 三島からの最後の手紙は、瀬戸内が「英霊の声」に感動して書いた手紙の返信。
「・・・・・・半年ほど心に煮詰つてゐた作品ですが、どうも『こんなことを書いていいのかな』といふドキドキがなければ、やはり作品を書く甲斐はないと思ひました。とにかく『やつたれ!』といふ気で書いたのです。・・・・・・小さな作品ですが、これを書いたので、戦後二十年生きのびた申訳が少しは立つたやうな気がします。まあそんな言ひ草はバカげてゐますが・・・・・・」

 川端康成への文章
 武田泰淳 辛抱づよいニヒリスト

 川端氏が、ノーベル賞を受賞されたとき、新聞社から電話がかかった。「この度、川端先生が・・・・・・」と、相手の声が、はっきりしなかったのか「え? おなくなりになったのですか」と、女房は聞き返した。まことに失礼きわまる話であるが、先生とのあいだに私的な交渉は全くなかったので、とんでもない誤解をしたのである。・・・・・・先生が本当に亡くなったよる、私は七時半頃から就寝していた。十一時に女房が二階へ上がってきて「川端さんが自殺したよ」と一言いった。私は眠くて、頭がもうろうとしていたので「分かってるよ」とつぶやいて、そのまま起き上がらなかった。先生の死が、夢の続きのようでもあり、死ぬのは当たり前だという気持が、夢の主要点のようにして、私の頭につまってしまった。
(川端の自殺の様子を知って)おそらく、死の直前には、死ぬこと以外考えていたはずはない。ノーベル賞のことも、勲一等のことも、念頭にはなかったであろう。どう考えても、最善、かつ、必然的な運命とさとられて、死になさったのだろう。ニヒリストでも、唯美主義者でも、死ぬときは死ぬのである。私は、自分が、先生の死に驚かなかったことを、少しも恥ずかしいとは思わない。先生にとっても、自殺は、長い間、考えていられたことであろう。・・・・・・

 

 奇しくも、本の雑誌』6月号 特集「追悼文は文学である!」。 

 
 坪内祐三のインタビュー3本。お相手は、文學界編集長・細井秀雄、「追悼の達人」嵐山光三郎、「追悼評論家」亀和田武
 嵐山光三郎 追悼にはものすごいドラマがある

(嵐)文学者の追悼で一番力が入るのは自殺なんですよ。近代文学の三大自殺というと、芥川、太宰、三島なんだけど、自殺となると文芸誌だけじゃなく三面記事にスキャンダルとして載る。それがわかっているから、みんなアリバイを用意するわけだね。
(アリバイ、芥川は「文学」、太宰は「女」、三島は「思想」)
・・・・・・太宰と三島への追悼は、文学と関係のないところでかなり悪く書かれるから、文芸誌が追悼して、そうじゃないという回答を出したんだよね。・・・・・・

 三島について、作家たちの追悼文、自殺が作家たちに与えた影響、葬儀での川端とその自殺についても。


(平野)