週刊 奥の院 5.15

■ 平野邦雄 『わたしの「昭和」 ある歴史家の「追体験」』 平凡社 1900円+税 
 1923年(大正12)松江市生まれ。東京女子大学名誉教授、日本古代史。
 東京帝国大学在学中に学徒出陣。敗戦後復学。九州工業大学東京女子大学で教授。文化庁主任文化財調査官、横浜市歴史博物館館長、日本歴史学会会長など歴任。著書、『和気清麻呂』(吉川弘文館)、『邪馬台国の原像』(学生社)など多数。共編著、『日本古代人名辞典』(吉川弘文館)、『古代の日本』(角川書店)など。
 

 このごろ「昭和時代」というタイトルをつけて、昭和をなつかしむような番組をテレビや雑誌でよく見かける。
 それがどのような心情にもとづくものなのか明らかでないが、私のように大正末に生まれ、昭和に育ち、青春時代も、老年時代も過ごし、そしてまだ生きているものにとっては、到底そういう風に昭和を回顧する気持ちにはなれないのである。

 大正デモクラシー大正ロマンという雰囲気と、昭和のイメージはあきらかに違うと。経済不況、軍事費増大、軍部クーデター、満州事変、東北農村の疲弊、満蒙開拓団軍国主義教育・・・・・・。

 私の人生が物心のついた小・中学生時代にはじまるとすれば、それから大学に入り軍隊に動員されるまでは、軍国主義の只中にあり、いわば身動きのただならぬ時代であった。しかし、その中でも社会に対する意識なり、いかに身を処すべきかを心底に蔵してはいたのである。
 昭和二〇年、敗戦を迎えたとき、戦争から生きて還れるとはまったく思っていなかった私には、それからの人生は「余生」だと、真剣に考えられた。しかし余生どころではなく、現在の私は九〇歳、敗戦から数えても六八年になる。この間にもまた時代は幾変転を重ねた。・・・・・・

 回想録ではなく、歴史家として、その時々の国家・社会とどう向き合ってきたかを自ら正確に「追体験」する。

1.昭和という時代  松江の街  家庭生活  旧制高校帝国大学
2.戦争と軍隊生活  海兵団  海軍航海学校  陸・海軍の終焉
3.敗戦後の復興  荒廃の風景  国民の努力
4.日本の衰運  大学教授の生活  博物館長の意見
5.現代批判  子供の成長  車社会  香りと風味  「手」仕事・家族の「手」  農民の勤勉  武士の質素・倹約  清潔・正直・簡素

 昭和17年東京帝大文学部入学。
「東京は松江に比べ、空気が暗く荒廃とした感じ・・・・・・」
 大学に活気はなく、右翼教授がいるので研究室には近づかない。図書館で一人黙々と本を読む。当時すでに津田左右吉の本は閲覧禁止。翌年10月「学徒出陣壮行大会」。平野は出席せず。徴兵検査で松江に帰る。入隊日までの間、父母のいる青島に行く。

・・・・・・滞在中、街の一軒の本屋で岩波文庫を三、四冊買った。日本の本屋ではもう見かけないようなあたらしい本で・・・・・(ドイツの思想家の『独白録』は軍隊から持ち帰り、今も書架にある。なぜこの本を買ったのかは覚えていない)
・・・・・・母は「邦雄さんは入隊の直前になっても、まだ本を買っているのね」と歎くような慈しむような調子で語っていた。


 復学すると、左翼全盛。

 静かに読書できるような風はなかった。・・・・・・日本人固有の欠陥として、時流に迎合し、それに確固として対処できないことがあげられると思う。戦時中に私はそれに懲りたのである。・・・・・・

 史跡保存の現場では、土木工事から文化財を守った。
 

 開発と経済成長の合言葉に国民はわれもわれもとそれに同調した。その姿は、戦争に浮かされた時代に、国民が皆それに協調したことを思い起こさせた。

 あのときは行動に示すことができなかったが、「今度はそうはさせんと思った」。
 学者・研究者を動員して、調査と勉強会を組織し、調査・整備・指定に尽力した。平城宮跡難波宮跡、太宰府跡、姫路城跡なども、開発と保存が激突した史跡だった。
 
 学問に真摯に向き合う姿。
(平野)