週刊 奥の院 5.12

■ 野口武彦 『慶喜のカリスマ』 講談社 2500円+税 
(帯)英邁豪胆? 卑怯臆病? いったいどっちだったのか。
 野口はこれまでも徳川慶喜のことを書いてきた。かなり辛口で、慶喜嫌いと見られているかもしれないが、「昔もいまも慶喜ファン」と言う。辛口だったのは「落ち目」の時期だけを描いていたから。羽振りのよい時代、「将来を嘱望される若き貴公子として名声の高かった日々」があった。幕末権力闘争の主役の一人。
天皇の権威を利用して統一政権を作ろうとする薩長藩閥と、幕府の手によって日本国家の近代化をなしとげようと考えていた慶喜とのあいだの争闘だった」
「権力を奪取するには、政治的才能とは別箇の軍事的才能に恵まれていなければならない。慶喜という人物は、どうもその点完璧ではなかったようである」
 歴史の節目、「最後の将軍」という立場。歴史のなかで、
慶喜はもっぱら否定されるもの、乗り越えられるべきもの、敗北と決まったもの」、「慶喜に封建反動のレッテルを貼りつけて戯画風に単純化されてきた。
 本書では、慶喜の「名声の高かった」時代に立ち帰って、彼の《カリスマ》的天分とその失墜を見る。
《カリスマ》の原義とは、「いつか飛び去る者」だそう。何かが主人公の肩の上に乗って夢や希望について対話する、しかし、いつか飛び去り、主人公の夢もなくなる。
 ヨーロッパの王家同様、日本でも朝廷、徳川家、諸大名が血縁で結ばれていた。慶喜の父は“天下の副将軍”徳川斉昭、母は皇族有栖川宮吉子。
 慶喜は幼少時から頭脳明晰、斉昭は「名将の器」と愛情をそそぐ一方、スパルタ教育。慶喜6歳のとき、腹心・藤田東湖が「あっぱれ名将となられるでしょう。しかしよほどうまく育てないと、手に余ることに・・・・・・」と評した。
御三家のなかで水戸家は官位・石高とも低い。徳川宗家の後継予備だが、八代吉宗から十四代家茂まで紀州家の血筋。1847年(弘化4)慶喜は一橋家(吉宗ゆかりの御三卿)養子に入る。当時将軍家血統は水戸家以外後継者に恵まれておらず、斉昭の期待はふくらむ。幕府後継者不安という内憂、黒船来航・開国交渉という外患。幕閣・有力大名らの権力闘争は大河ドラマでおなじみの場面。
慶喜は58年(安政5)の将軍継嗣問題で井伊派に破れ、安政の大獄で隠居・謹慎。
 62年(文久2)将軍後見職に抜擢。これは薩摩の後押し。慶喜が幕府内部で実権を握ったわけではない。自力で掴みとらねばならない。幕府内、倒幕派とも争闘は続く。公武合体、長州戦争敗戦、兵庫開港。そして、67年(慶応3)10月大政奉還。その12月8日の朝議が岩倉具視による王政復古クーデター。慶喜はこの会議を病気と称して欠席。9日薩摩藩などが御所を警備、会議で徳川家処分が決まる。明けて1月「鳥羽伏見の戦い」。兵士たちを置いて大坂城脱出。
 江戸に戻って、慶喜は何をするつもりだったのか。決戦か、恭順か?
 1月23日、勝海舟が決戦ならば勝ち目はあるが天下瓦解、終わりのない戦乱となると進言。2月11日、慶喜は不戦の意向を明らかにする。

「伏見の一挙は、じつに不肖が指令を誤ったことに起因する。はからずも朝敵の名を蒙むるに至ったことには弁解の言葉もない。・・・・・・戦争が長びいて終結しなかったら、インドやシナの覆轍に陥り、皇国が分裂瓦解し、万民を塗炭の苦しみに陥らせるのに忍びない。・・・・・・」
 これが鳥羽伏見の戦いの結末を告げるマニュフェストだったのである。・・・・・・

 翌日、慶喜はわずかな供に囲まれて上野寛永寺に入り、ひたすら恭順の態度を示す。

 野口が描く、慶喜《カリスマ》消失の場面。
 1月17日、鳥羽伏見の負傷兵たちが江戸に帰着。慶喜は見舞いに駆けつけ、兵たちに言葉をかける。手負いの武士(名前もわかっている)が慶喜に向かって言い放った。

「上様は正真正銘の腰抜けでいらっしゃる。しょせん当てにならない御仁です。さっさとお国[水戸?]へご下向あって五千の兵を募られ、四境を御固めなさるのがよろしかろう」(「会津藩大砲隊戊辰戦記」『会津戊辰戦争史料集』)
 慶喜は全身が熱くなり、また寒くなった。
 自分の不評判は知っていたが、まさか面と向かってこうもいわれるとは思っていなかった。
 慶喜は自分に宿っていたある種の力が飛び去ってゆくのをまざまざと感じていた。いつも肩に留まっている鳥もひどく羽色が悪く、クソトンビのように冴えない色合いだったし、なによりもあの軽やかな羽ばたきが聞こえなかった。
 人びとが向ける視線も、かつての畏怖ではないのはもちろん、憎悪でも反感でもなく、ただ路傍の石を見るような無関心の色を浮かべていた。いつも見慣れていた眩しそうな目つきが消え失せていた。それがいちばん胸にこたえた。

 “名声”の時代でも、エリートゆえの自信とその裏返しの弱さが交互に現れる場面があった。
 今年は慶喜の没後100年にあたるのだが、話題にはならない。歴史上のヒーローとして捉えられていない。長い後半生を優雅に暮らした。
「後半生をあまりにも調子よく送りすぎた」

(平野)
《カリスマ》とは泡みたいなもの。人々が泡に期待して浮かれているうちはいいが、何かの拍子に弾けておしまい。