週刊 奥の院 5.2

■ 白石一文 『快挙』 新潮社 1300円+税
 前に少し触れた【海】の名が一度だけ出てくる小説。
罪と罰を抱き、愛とともに生きる。それこそが、夫婦。」(帯)という夫婦小説。
 始まりは1992年。主人公・山裏俊彦、25歳の時。カメラマンを目指しながらアルバイト。下町の路地裏の「市民の暮らしを記録し、庶民の哀感をちょっとばかりユニークに切り取って……」という作品。月島で小さな居酒屋を見つけて撮影していて、ひとりの女性に出会う。「目が離せなくなって彼女を凝視しつづけた」――一目惚れ。
 店の名は「須磨」。神戸市須磨区出身・中村みすみ27歳、離婚歴あり。同棲から結婚、ふたりとも実家の家族とはうまくいっていない。
 みすみ流産、俊彦は写真をあきらめ小説に進路変更。94年S社新人賞に応募、作品名『快挙』。編集者の後押しで最終選考まで残るが落選。みすみ、再び流産。
 95年1月17日、阪神・淡路大震災。みすみの実家に。S社編集者は震災をテーマに書けると励まし、放送局の友人に紹介もしてくれた。新しい小説を絶賛し、タイトルを『快挙』にせよと。しかし、その編集者が事故死、作品はボツに。
 俊彦は肺結核を発症、入院、療養。みすみに男性の影が。俊彦は東京に戻ることを提案、彼女も従う。3年ぶりの東京。病は治まり、S社で雑誌ライター。みすみは居酒屋開業。仕事も店も順調だったが、みすみ、がん、早期発見。俊彦の連載が単行本になりヒット。新しい小説に挑む、1000枚を超える大作になりそう。
 
 
 みすみが他の男性に心を移した頃、俊彦も彼女の従妹に魅かれた。みすみの男性関係を父親に打ち明けた時、親子不仲の原因を聞いた。父親と姪(従妹)との不倫だった。父親が言う。

「人間の心の中には魔物が棲んどる。いまのみすみもそうなんやろう。きみの心にかて魔物はおるんや。……魔物に負けんようにしてほしい。……」

 実家の近くに須磨寺山本周五郎須磨寺附近』の文学碑がある。
「あなた、生きている目的が分かりますか」
「目的ですか」
「生活の目的ではなく、生きている目的よ」 
 俊彦はいまの自分には、そのどちらもないと思った。
 三好兵六の句碑もある。
――夫婦とは なんと佳いもの 向い風
 二人で向かえば大丈夫という意味だと思っていたが、逆境の時こそ夫婦の真価が試されるということではないかと悟る。句を何度も口ずさむ。
「いつの間にか瞳から涙があふれてきた。」

 
 大作完成間近、またもみすみに異変、がん再発? みすみの検査結果が出る当日早朝、パソコンの原稿を見る。

……
 この小説はきっとうまくいくだろう、と思った。
 だが、もしもみすみのがんが再発し、彼女が死んでしまうようなことが起きたら、いったい、この小説はどうなるのだろう? 
 それでも、世に送り出され、私は作家として世間から認められるのだろうか。
 おそらくそうなるだろう。
 そのときの私の心に果たして喜びは宿るのだろうか?
 みすみを失った悲しみは、別種の喜びによって幾らかは減殺されるのだろうか?
 私にはよくわからなかった。
 ただ一つ、はっきりと言えることがあった。
 もしも、この命を捧げることでみすみが助かるのならば、たったいまこの瞬間に、何のためらいもなく私はこの身を差し出すだろう。
……
 もういい、と思った。
 この小説はもうここまででいいのだ。
 みすみのためにできる最大の償いはそれしかなかった。罪を償うことで罰から逃れられるかどうかはわからない。だが、いまの私には他にできることが何もない。
 みすみが生きていてくれるなら、小説なんてどうでもよかった。


「快挙」という小説、詳しい内容については書かれていない。最初のは、「思わぬ成功を手にしたがゆえに主人公の青年はどん底に突き落とされてしまう」。カメラマン志望時代のこと。二作目は、「震災で何もかもを失ってしまったがゆえに、主人公の居酒屋店主は人間としての喜びに目覚める」。三作目はたぶん結核体験と夫婦の危機が描かれたのだろう。
 俊彦が「人生の快挙」について考えた場面。S社の写真雑誌が廃刊して仕事がなくなり、新しい企画に誘われる前。

 私にとっての人生の快挙とは何だったのか?
 真っ先に思いつくのは、やはり月島の路地裏でみすみをみつけたことだった。もっと具体的に言えば、彼女に巣食っていた疲労感を察知できたことであり、この人と一緒に生きようと瞬間的に覚ったことであり、写真をすぐにプリントして月島にとって返したことであり、二度目に訪れた際、ずるいと言われて、さっさと席を立ったことだった。
 なけなしの一万円札をカウンターに置いて出ると、私はとぼとぼと夜の小道を歩いた。しばらくして後ろからぱたぱたとサンダルの音が聞こえてきた。 
その足音を耳にして私は歩みを止め、振り返った。
あの瞬間はまさしく人生の快挙だった。
(他の男性とのことがあって、俊彦が彼女を責めていれば、一緒にいることはできなかった。彼女は俊彦との人生を選んだ)
「僕と一緒に東京に帰ろう」
 と言ったとき、みすみは「うん」と小さく頷いた。
 あの瞬間こそが、私の人生にとっておそらく二つとない快挙だった。……

 白石は山本周五郎賞受賞者。

【海】登場は、1998年6月、俊彦退院して夫婦は元町近くに転居して。

……海文堂という品揃えのいい書店を見つけて、散歩に飽きたらそこに入ってあちこち書棚をめぐってひまつぶしをするようになった。……


 白石さん、登場させてくださって、ありがとうございます。


◇ NR出版会HP連載 書店員の仕事 特別版 「忘れないため」と「忘れるため」 盛岡市東山堂書店・横矢さん。 http://www006.upp.so-net.ne.jp/Nrs/top.html

◇ 【海】HP更新。http://www.kaibundo.co.jp/
(平野)
 「人生の快挙」、私も実感しておりますです。