週刊 奥の院 4・11
■ アレッサンドロ・マルツォ・マーニョ 清水由貴子訳 『そのとき、本が生まれた』 柏書房 2100円+税
著者はヴェネツィア大学でヴェネト史(イタリア北東部ヴェネト州、ヴェツィアは州都)専攻。
16世紀、ヴェネツィアはパリ、ナポリと並ぶ大都市。イタリアの一流品が並ぶ現在の繁華街は昔のまま。当時、ビザンチン帝国時代から受け継ぐ秘伝の織物、イスラムの伝統技術・革製品、鉄製武器などの店で賑わっていた。
……なかでもよそから訪れた人々の目を引いたのは本だろう。ヨーロッパの他の都市では類を見ないほど、たくさんの書店がここヴェネツィアに集まっていた。……その活況たるや、それより六十五年ほど前の一四五二年〜五五年にかけてグーテンベルクが聖書を印刷したドイツを凌ぐほどだった。実際、十六世紀前半のヴェネツィアでは、ヨーロッパ中で印刷された本のじつに半数が印刷されていた。さらには数だけでなく品質にもすぐれ、「彼の地の印刷者の作る本は豪華で美しかった」。十六世紀のヴェネツィアで出版業が栄えていなかったら、こんにち私たちが手にしている本も、ふつうに話しているイタリア語も、この世に存在しなかったかもしれない。現在のイタリア語はトスカーナ出身のダンテやペトラルカの作品に基づいているが、その事実を現代にまで知らしめているのが、ヴェネツィアにおいて人文主義者のピエトロ・ベンボが監修し、学術出版の祖と呼ばれるアルド・マヌーツィオが印刷した版である。……
1.本の都、ヴェネツィア 2.出版界のミケランジェロ、アルド・マヌーツィオ 3.世界初のタルムード 4.消えたコーラン 5.アルメニア語とギリシア語 6.東方の風 7.世界と戦争 8.楽譜の出版 9.体のケア――医学、美容術、美食学 10.ピエトロ・アレンティーノと作家誕生 11.衰退、最後の役割、終焉
マヌーツィオは、文庫本考案、イタリック体発明、ペトラルカの本出版し、句読点、アポストロフィ、アクセント記号を採用した。
……だが、アルド・ロマーノ(ローマを州都とするラツィオ出身であることを示すために署名ではこの名前をもちいた)の功績は、何といっても本を娯楽の対象としたことだろう。つまり、彼は読書の楽しみを生み出したのだ。それまでは、もっぱら祈禱や学習の道具として用いられていた本を、余暇の時間に手にするようになったことは、まさに知的革命にほかならない。また、マヌーツィオは現代で言う初の出版人でもあった。……
印刷物・出版物を商品としてだけではなく、文化的な教養・技術と理解し、市場が求めているものを提供した。
■ 石橋正孝 『〈驚異の旅〉または出版をめぐる冒険 ジュール・ヴェルヌとピエール=ジュール・エッツェル』 左右社 4200円+税
著者、1974年生まれ、立教大学他で講師。日本ジュール・ヴェルヌ研究会会長。著書、『大西巨人 逃走する秘密』(左右社)、『ジュール・ヴェルヌが描いた横浜』(慶應義塾大学出版会)他。
この二人が作家と編集者という役割分担を創始した。ゲラのやりとりのたびに、加筆・修正がくりかえされた。
ヴェルヌは『八十日間世界一周』で有名なフランスの作家。いわゆる<驚異の旅>シリーズが彼の死後も毎年2巻のペースで出版された。作家複数説、それに生前の盗作騒動、他人による著作権主張、などのスキャンダルが起こった。さらに、悪役に名前を使用された人物が遺族を訴えた。作品の「真正性」についての疑問が投げかけられた。
……疑問を投げかけられる事実があるとすれば、それは彼の編集者であったピエール=ジュール・エッツェルとの密接な協力関係にほかならない。エッツェルがヴェルヌを発見し、多くのアドヴァイスを与えて「育てた」ことは作者生前から半ば伝説となっていたし、一九二八年にマルグリット・アロット・ド・ラ・フュイが刊行したヴェルヌ伝によって、それは文学史上有数の美談となった。多くの出版社を盥回しされた原稿に目を止めたエッツェルは、無名の著者に対し、即座に二十年の独占契約を申し出た云々……。
エッツェルを「搾取」と「検閲」で悪役にする研究もある。
石橋は、99年刊行された二人の往復書簡を徹底的に読み込み、ナント市立図書館のヴェルヌ自筆草稿を調査して、
「文学史的にもあまり類例のない作家と編集者の関係を、具体的な編集手順や出版契約に即して捉え直す」。
(平野)