週刊 奥の院 3.30

■ 井上理津子 『遊廓の産院から  産婆50年、昭和を生き抜いて』 河出文庫 850円+税 
『さいごの色街 飛田』の著者。本書原本は1996年『産婆さん、50年やりました 前田たまゑ物語』(筑摩書房
 前田たまゑ(1918〜2003)は福知山線広野駅から30分ほどの田舎の生まれ。50年の産婆生活で8000人の赤ちゃんを取り上げた。昔ながらのラマーズ法を看板に尼崎で「前田助産院」を開業していた。井上はこちらで出産を経験。
 現在のお産、ほぼ100%産婦人科でしょう。

……助産婦の手による出産と医師の手による病院・医院での出産の違いは何か。大ざっぱに言えば、助産婦の手によるものは「赤ちゃんが生まれてくるのを待つお産」、医師の手によるものは「薬剤、医療機器類によって赤ちゃんを産ませるお産」と言えようか(前者の方法をとる医師も少数だがいるが)。……

 出産が医師に移行することで妊産婦死亡率が低下し、死産が減少したのは大きな功績。しかし、井上はこれを「お産が安全になった」とは解釈しない。「出産コントロール」による事故が起きている。

「医療の発達した今だから助かった。昔なら死亡していたに違いない」と若い母親が言う難産例の多くが、見方を変えれば「昔なら難産にならず、自然に生まれていた」と言えるのではないかと私は思う。

 井上は出産後、前田に「自身の人生と助産婦という仕事について語ってもらえないか」と頼む。1989年9月から取材開始、お産にも立ち会った。
 前田の母親は「お産の後遺症」で亡くなった。入院で大きな借金が残った。父親は家を出、兄夫婦のやっかいになった。兄嫁が死産。前田は看護婦志望だったが産婆になろうと思った。20歳のとき神戸福原の遊廓近くの産婦人科の見習いに。遊郭の女たちの悲劇を目の当たりにする。

……十二、三歳で東北の貧しい農村から売られて来て、まずは使い走りなどの雑用係をさせられる。十四、五歳から五十歳前まで客をとらされ、その後は女郎の見張りをするという。
 彼女らは売られて来た時、すでに前借金に旅費や食事、衣類代が加算されているから膨大な借金を背負っている。……
 女たちは妊娠しても産めない。医師は人殺しはできないと断わる。前田は、この医院は「産む以前の問題の場」と気づく。

 前田がここに住み込んで3年半ほどで、お産の現場にたったのは1回だけ。あとは性病や女性の病。患者の8割方が遊廓の女性。中絶を断わられた女郎が自殺したこともあった。

「看護婦さん、あなたはいいね、夢も希望もあって、私ら、一生、籠の鳥よ」
 親しくなった遊廓の女性が、たまゑにそう漏らした。……

 母親が亡くなって15年、借金の返済は続いている。毎月18円の給料から10円を兄に送る。

……お産からみで死ぬ人をなくし、うちのように借金であとあとまで苦しむ家族をなくすために、産婆を目指したのだ、と改めて思う。確かに、今はその第一歩を踏み出しているはずである。来る日も来る日も、遊廓の女性たちの疾患治療につきあうばかり。かんじんの出産現場に立ち会えない。……

 産婦人科医の義兄(外科医)に産婆になりたいと相談すると、産婆学校に推薦してくれた。1941年4月、住み込み勤務しながら、午後の2時間の授業に通った。通学2年目に、お産の神様といわれる産婆さんのところに勤めることになる。
目次
1 母の死、義姉の死産  2 看護婦見習いの頃  3 お産の神様  4 戦時下のお産  5 お産ラッシュ  6 産婆から助産婦へ  7 妊娠しないように教える仕事  8 産婆と米屋、二足のワラジ  9 病院出産の時代に  10 ラマーズ法  11 わたしの出産記録

(平野)
 本書、配本なし。紹介が遅くなった。
 私は、家で産婆さんに取り上げてもらった。
 前田たまゑの通学は市電。湊川公園、楠町、大倉山、下山手8丁目、中山手6丁目。我が家から徒歩の範囲。