週刊 奥の院 3.27

■ 『アンソロジー カレーライス!!』 PARCO出版  1600円+税 
「カレー」と聞いただけで生唾が出て……。
 専門店のカレーはもちろんおいしい。でもね、やっぱりお母ちゃんが作ったカレーや、キャンプでみんなで作って食べるカレーがおいしい! という思いがある。今なら愛妻のカレー。一人寂しく温めるレトルトも。
 文筆家たち33人のカレーの思い出。
 池波正太郎『カレーライス』

……この食べものを、はじめて口にしたのは、むろん、母の手料理によってである。……母が作るライスカレーは、大きな鍋へ湯をわかし、これへ豚肉の細切りやにんじん、じゃがいも、たまねぎなどをぶちこみ、煮あがったところへ、カレー粉とメリケン粉を入れてかきまわし、これを御飯の上へたっぷりかける、というものであって、それでも母が、
「今夜はライスカレーだよ」
 というと、私の眼の色が変ったものである。……

 中島らも『子供の頃のカレー』
「まずぅいカレーが食べたい」
 実際にあった「喫茶・おばちゃん」。看板の店名の横に「コーヒー・うどん」と書いてある。カレーは甘くて、カタクリ粉のとろみで、うどんダシ。

 安西水丸『カレーはぼくにとってアヘンである』 

 カレーライスが好きでよく食べる。一週間に三回は食べている。ときどき禁断症状に苦しむことがある。カレーはぼくにとってアヘンである。もしかしたら、ぼくはカレーライスのために生きているのではないかとおもうことがある。どうしてこうなってしまったのだろう。…… 

 
 井上ひさしセントルイス・カレーライス・ブルース』
 ストリップ劇場時代の思い出。踊り子さんたちにお客から差し入れ。

……永井荷風高見順サトウハチローたちが根城にしていた国際通りの喫茶店、「セントルイス」特製のカレーライスが、断然、他を圧していた。毎日のようにカレー汁と白飯が届くのである。その汁を飯盒に集めて水を差し、薄くのばして量をふやすのが、私たち進行係の、なにより大事な仕事だった。こうして何倍にもふえたカレー汁は、午後遅く、楽屋中に振る舞われた。そして私たちの分け前は、踊り子さんたちの好意で飯盒の内側にたっぷりとこびりついて残されたカレー汁で、ここに白飯を放り込んで食べるのである。味音痴にもあれだけはおいしかった。たぶん踊り子さんたちの心意気のようなもので味付けされていたからおいしかったのだろう。


 女性はどうなのか?
 よしもとばなな『カレーライスとカルマ』
インドカレーとカルマ」。不思議で悲しくて、ちょっと怖い「カレー」の話。

■ 小菅桂子 『カレーライスの誕生』 講談社学術文庫 880円+税 
 著者(1933−2005)は作陽大学教授を務めた食文化史研究者。著書に、『水戸黄門の食卓』『グルマン福沢諭吉の食卓』他。本書原本は2002年講談社刊。
「カレー」という言葉を日本に紹介した人物は福沢諭吉。万延元年(1860)遣米使節に加わった福沢は、サンフランシスコの書店で『華英通語』という辞書を入手。中英辞典。帰国後、その年のうちに日本人に役立つよう改訂して出版したのが『増訂華英通語』。漢語・英語・カタカナ読みを並べた。
牛乳・Cream・キリーム  点心・Pastry・パストリー
牛脂・Butter・ボックル  ……
大変な苦労があったことだろう。
「炮製類」(あぶる・焼く)の項目中に「カレー」がある。
「加兀・Curry・コルリ

……福沢諭吉が、この辞書の翻訳をおこなっている段階で、カレーとはなにか知っていたかどうかは明らかではないが、これが文字に書かれた日本最古のカレー資料である。グルメとしても知られており、さきがけて牛肉や牛乳、トーストなどを試して愛好し、日本のビールよりもアメリカのビールを好んだ諭吉だが、カレーをいちばんはやく紹介したところにも、彼の先進性がうかがえる。


 では、カレーを最初に食べた日本人は誰か? 
 現存する資料では、元会津藩士・山川健次郎。明治4年、国費留学生として渡米する船内。洋食を食べられない山川に船医が飯を食べにゃいかんと勧めたのがカレー。食べて見る気になったが、
「上につけるゴテゴテした物は食う気になれない。それでその時杏子の砂糖漬があったから、之を副食物にして米飯を食し……」(山川老先生六十年前外遊の思い出)
 カレーを「カレー」としては食べていない。

(平野)