週刊 奥の院 3.11
■ 内藤三津子 『薔薇十字社とその軌跡 出版人に聞く(10)』 インタビュー・構成 小田光雄 論創社 1600円+税
1960年代から70年代初頭のお話。
内藤は1937年上海生まれ。玄光社、中山書店、新書館、話の特集を経て、68年天声出版で『血と薔薇』企画・編集。69年「薔薇十字社」設立、73年倒産。その後、出帆社を経て、82年から編集プロダクションNアトリエ主宰。
(帯) 三島由紀夫・寺山修司・澁澤龍彦らと伴走した日々。
「伝説の女性編集者」
『血と薔薇』
新書館時代に何とか澁澤さんの本も出したいと思い、ある企画でお訪ねしたことが始まりです。それは断られてしまったけれど、その後「話の特集」の原稿依頼で二、三回お目にかかり、どうしても自分の編集者人生に澁澤龍彦という人物を引き入れたいとずっと熱望していた。(澁澤に相談する前に)松山俊太郎さんとその友達の種村季弘さんにも根回しというか、支援を頼み、それから私と矢牧(天声出版副社長)、四人で澁澤さんのところに相談に行ったのです。……北鎌倉のお宅にうかがい、それで夜を徹して飲みながら雑誌創刊の話をしたわけです。(澁澤責任編集『血と薔薇』を提案)澁澤さんの回想の言葉を借りれば、「二つ返事」で引き受けてくださったわけです。
アートデレクション堀内誠一他、三島、種村、松山、稲垣足穂、埴谷雄高、塚本邦雄、加藤郁乎、植草甚一、立木義浩……。
三島には澁澤が協力を要請、三島は「男の死」グラビアを提案。
春に編集会議が始まり、9月に創刊。
とにかく馬車馬のように働き、猪突猛進の日々でした。でもそれが面白かったから、苦労だと感じなかった。
それは澁澤さんも同様だったんじゃないかしら。編集会議を口実にして連夜のように酒を飲み、六本木、渋谷、新宿などで明け方まで遊んでもいましたね。
私が編集者として誇れるのは当時は記憶力が抜群だったことです。みんなが飲みながら企画や編集の話をしているけれど、そのうちに酔っ払って何を言ったか忘れてしまう。それをメモしたり、記憶しておく。それで翌日になって当人に話すと、テープレコーダー持参で飲んでるみたいだと重宝された。
華やかな人たちが参加し、華やかな誌面になった。実務は矢牧と内藤だが、堀内の熱心な協力で苦労は感じなかった。無名出版社だが、何より「澁澤」の名で原稿依頼し、断られることもなかった。
話題になり売れたはずだが、返品も多く、3号進行中に資金難で経営者とトラブル、編集部全員退職。4号は編集もデザインも別物になった。
「薔薇十字社」を立ち上げ、最初の本は澁澤訳コクトー「ポトマック」。
最後に小田が言う。
――……内藤さんのように頭も人柄もよく、企画も人脈もとてもしっかりしているのに、どうして出版社は倒産してしまうのか考えてしまいます。
内藤 それは私だって不思議なのよ。最初からつぶれるつもりはまったくないのに、いつの間にかつぶれてしまう。それを繰り返しているうちに、借金だらけの上、私もこんな年になり、みなさんも亡くなってしまい、私と松山さんだけが残されてしまったことになりました。
――いや、それでも内藤さんの出版人生はとてもすてきなものだったと思いますよ。もちろん苦しいことが多かったでしょうが……
マニアの人たちには懐かしい楽しい話。
(平野)
『血と薔薇』は、古本で2・3のみ入手し、河出文庫版も。復刻版には手が出なかった。