週刊 奥の院 2.24
■ 田中眞澄(まさすみ) 『本読みの獣道』 稲川方人(まさと)解説 みすず書房 大人の本棚 2800円+税
1 いつか来た道 とおりゃんせ 五〇年代児童が読んだ本
「アンデルセンのこと、なぞ」 『小公子』『小公女』をめぐる女性たち 『三太物語』に読む「戦争と平和」 他、ロビンソン漂流記、若草物語、ハイジ、飛ぶ教室、君たちはどう生きるか ……
2 一切合切みな煙
煙草・ユーモラスな残酷 汽車に匂いがあった頃
3 ふるほん行脚 完結篇
雑本哀楽2008〜2011
田中眞澄(1946〜2011)は北海道生まれ。映画・文化史家。著書に、『小津安二郎のほうへ』(みすず・2002年)、『小津安二郎周游』(文藝春秋・2003年、岩波現代文庫・2013年)、『ふるほん行脚』(みすず)など多数。
目次を見ると児童文学畑の人と思ってしまう。
稲川の解説「野から現われ、野に消えた人」より。
田中が亡くなって1年後の2012年12月、稲川はこの文章を書き始めた。
「……いまこの国は、そこに生きる私たちにとっては、ただひたすら無意味に時が経過していく空虚な場となりつつある……」
ある地方都市での出来事。80歳を超える母と身体障害者の娘・50歳が、料金滞納で電気を停められ凍死した。
凍えた部屋で生を終えた罪なき二人の弱者の悲痛を、怒りによって受け止める「人としての資格」は、「世論」から遠ざけられ、剥奪されている。とりわけ二〇一一年三月以後は、あらゆる場においてその抑圧が顕著である。国家による「殺戮」だと断定することに私は少しも躊躇していない。……
3.11のあと、稲川は田中と「震災」について話した。稲川は被災地救済の政治的対応への疑義を述べた。田中は、被災地の人たちへの慈しみを「誇示する様子は微塵もなく、だからといって控え目でもない言葉で何度も言った」。
……圧倒的な惨劇の顕現からは見えない人々のこと、その無名の姿を田中さんは言ったのだった。日々数値が動く被災避難者のその日に発表された数を正確に言いながら、それらの人々の計り知れない内面を真っ向から受け止めようとしていたのだ。排他的な、つまりは自己を現実の圧迫から隔離するような教養主義的な語彙は微塵もなかった。田中さんはもっぱら悲しかったのである。
田中の他者への慈しみ・悲しみの根源を、稲川は遺著にある読書遍歴から読み取る。
「アンデルセンのこと、なぞ」より。
私は街を歩く。毎日のように。そして古本屋があれば覗いて見る。遠出をしたときや、旅先でも、古本屋を見つけるのが楽しい。どうせ廉価の本しか買わないのだが、活字に目をさらすと生きている気分になる。他人に無用な雑書でも、私には精神的な掘り出し物であったりもする。何はともあれ、ものごころついて以来、趣味の第一は、いつも読書と決まっていた。
テレビ電波は地方にまだ届かない。ラジオについては詳しい。相撲、落語、浪曲、ドラマ。当時の流行歌は今でも歌える。
しかしながら、それらにも増して、子供の私を魅了したのが、本、あるいは本に書かれた物語だったといえようか。
私は街を歩き、古本屋の店先で、半世紀余りも昔の古い馴染みの「物語」に出くわすことがある。むろん当時の刊本ではなく、後年のものであることが多い。あるいは文庫本などに姿を変えて。時に私はそれらを購い、読み直すつもりで、いつか本の山に埋もれてしまう。過去への回帰に伴う情感を、いつから私は禁じ手としたのであったろうか。
1950年代児童書出版が盛んになる。叔父が送ってくれた「岩波少年文庫」、親が毎月買ってくれる「創元社版世界少年少女文学全集」が小学生時代の読書の基本だった。近所のおじさんに借りた「佐々木小次郎」もある。小3の時に読んだ子供向け天文学書にも影響された。
数年前、高校の同期会で久しぶりに郷里を再訪した。実家がその町を離れて縁がなくなって、およそ三十五年。その日は朝から夕方まで、街中から街外れまで、一人で歩きまわったのだが、小学生時代に住んだ辺りの変貌著しく、道筋も変わってしまったことを知った。半世紀余りの昔、どこに子供の私がいたのだろうか。
街が変わった以上に、私自身が変わっている。それでは、本を読んで育った子供の心の通い路、あの道この道は、今は変わって見えるだろうか。そもそもそれらの物語のどこが面白く、そして何を教えられたのか。そして永い歳月の後、どんな姿を見ることになるのだろうか。
一九五〇年代の日本の児童が読んだ本。そこには時代に固有な必然とともに、特殊を超えた超歴史的普遍がなければならない。その追体験とは、畢竟、人類の存在に同伴した「物語文化」の「魔力」に触れることなのである。
私は街を歩く。昔なじみの物語に目がとまる。今度こそもう一度読んでみようと思い立つ。
(平野)
またしても、遅れて読者になる。