週刊 奥の院 2.14

■ 思想の科学研究会 編  『共同研究 転向 5 戦後篇 上』 平凡社東洋文庫 3400円+税 
第一章 昭和二十年、二十七年を中心とする転向の状況 ……藤田省三
第二章 国家主義
右翼運動家――津久井龍雄・穂積五一・石川準十郎 ……判沢弘
教育者の転向――東井義雄 ……原芳男・中内敏夫 
満州国の建設者――石原莞爾・浅原健三 ……仁科悟朗
軍人の転向――今村均吉田満 ……鶴見俊輔
第三章 保守主義
保守主義と転向――柳田国男・白鳥義千代 ……橋川文三
第四章 自由主義者
民主社会主義の人びと――蝋山政道ほか ……松沢弘陽

 鶴見俊輔の「要約」より。
 戦前・戦中とはまた違う「敗戦転向」。
 1945(昭和20)年8月15日無条件降伏。連合国による「国家制度ぐるみの転向」。

 占領軍のつかった強制力は、戦争裁判、公職追放軍国主義的内容の教科書の使用禁止、ラジオ・映画・新聞・雑誌の検閲など。各種の国家主義的運動に財源を提供してきた層が、財閥解体と農地改革で余力をうばわれたことも、国家主義者の転向への間接の強制力としてはたらいた。国家主義的な人びと全体のうしろだてとなってきた勅語と欽定憲法とが、天皇人間宣言平和憲法によっておきかえられたことも、国家主義者の転向への強制力としてはたらいた。

 1952(昭和27)年4月28日サンフランシスコ講和条約発効によって、占領軍司令部が廃止されるが、それ以前、49年の朝鮮戦争開始以来、占領軍は共産主義者を弾圧。これに共産党は軍事方針でこたえた。

……両者の対立は、一九五二年五月一日メーデーの流血事件をふくめて、数度の暴発状態をもたらした。国民が共産党についてこないことと、共産党内部で分派抗争が無原則的につづけられたこととが、敗戦後に共産党に期待をよせてきた多くの青年に、日本左翼運動にたいする反省の機会をあたえた。この時期に、左翼から離脱することへの誘因としてはたらいたのは、警察によるむきだしの暴力、政府および大会社によるレッド・パージのほかに、マスコミによる天下泰平時代の宣伝、家族による快適な生活形態建設への説得、会社職制によってなされるより穏健なサラリーマン生活復帰への説得だった。

 鶴見は指摘する。45年以後の超国家主義からの転向は、公的機関・公党ぐるみ転向で、40年の超国家主義への転向の仕方とよく似た形。52年以後の共産主義からの転向は、好景気の中で左翼が社会復帰できる条件があったという点で、33年当時の転向と似た形。戦前の転向と同種の問題と取り組み、さらに戦後の転向の新たな問題も検証する。

 戦後転向の研究は特殊なむずかしさを持っている。そのむずかしさの一つは、それが一定(太字、原文は傍点、以下同じ)の上申書でもって国家権力に対して誓約するといった戦前の典型的な「獄内転向」の如きだれの目にも確かな客観的規格性をもっていないというところから来ている。杉浦明平が戦後の転向論において「民主主義運動はその実践によって自ら学び日々に強化され進歩している。しかし敵もいびきをかいて昼寝しているわけではない、必死で妨害している。だから転向もまた進歩し巧妙になる」(『近代文学』一九四八年七月号)といったのはこの側面を杉浦の立場から衝いたものであろう。おそらく戦後の「民主主義」は転向をも「自由」ならしめ、そこでの「自由な転向」はしばしば転向者自身にとってすらその軌跡が確定できないほどにまでそれ自身の客観的規準を失っているのであろう。……(藤田省三

(平野)