週刊 奥の院 2.6


■ 駒村吉重(きちえ) 『山靴の画文ヤ  辻まことのこと』 山川出版社 1800円+税

 著者、1968年長野県生まれ。新聞記者から執筆活動に。2003年『ダッカへ帰る日』(集英社)で第1回開高健ノンフィクション賞、07年『煙る鯨影』(小学館)で小学館ノンフィクション大賞


 稀代の「自由人」は本当に“自由”だったか 
父は放浪のダダイスト辻潤、母は革命家・大杉栄とともに虐殺された伊藤野枝
多くの画文と逸話を遺した「辻まこと」がかかえていた“魂の苦痛”とは。
……

  駒村は辻の画文集を机に並べて思う。

……装丁から小さなカット、押し型のロゴ、レタリング、文字組みまでおしみなく手をかけた三冊の手ざわりは、格別です。ふれると、いまもゆっくりと息をしているのがわかります。とはいえ、カラーのオフセット印刷で、挿絵をふんだんにつかった箱つきの本は値も張りましたし、失礼ながら生前さっぱり売れませんでしたよね。<それでよかったんだよ>
 と、本たちはあいかわらず涼しい顔をしております。「売れる」ことよりも、どんな書籍をどんな風に仕上げるかのほうが、あなたにとってはるかに重要だったことは、彼らのたたずまいが語るとおりなのでしょう。……

 まことは、書籍づくりだけではなく、つくること、人間関係、すべてにおいて「ヘンに〜」とつくほど器用だったと。その「器用さ」は自分で磨き込んだ「技術」で、それをもって得られたものは「至極ささやかな自由」ではなかったかと想像する。幅広い仕事、縦横な人づきあい、山歩き、岩魚釣り、狩り、絵、音楽……。
 駒村は、「本物の放浪者として生涯を終えた」辻潤のことを考える。ふたりの「自由」は違うのか?
 母・野枝出奔後、まことは潤の妹夫婦に預けられたらしい。潤と一緒に暮らすようになっても、彼はめったに家にいないし、たまにいても2階に上がったきりで留守同然、家の者と会話するのは酔ったときだけ。有象無象の文士、主義者、街で拾った客人、女たちがたむろする。まことは大杉の家にも遊びに行った。そこも居候だらけ。駒村は少年時代のまことのことをこう書く。

 他人の飯を喰うのも、ただ家にいるのも、まことにとっては過酷な営みだったのだ。遊び相手をさがす――、それだけのことでも少年は考え工夫し遠い街まで冒険をしなければならなかった。孤独な彼のそばにあって、いつでも相手をしてくれたのは、潤の部屋に散らかっている書物ぐらいだ。書物は、人間のように、血筋や家柄で読み手を選別したりはしなかった。
 おなじようにして、絵を描く愉しみも、ひとり覚えていったのだろう。……

 潤の放浪、同居、交友、父子のパリ暮らし、帰国後の潤の奇行・錯乱、まことの仕事、友・竹久不二彦、山遊び、山師稼業、妻イヴォンヌ(武林無想庵の娘でパリ育ち、本名・五百子、今でいう育児放棄で、長女は不二彦の養女に)など、父と子の歩みを追う。
 潤はたびたび精神病院に入れられ、昭和19(1944)年11月友人のアパートで孤独死、60歳。このとき、まことは天津で新聞社勤め。潤が肌身離さず持っていた風呂敷の中味は野枝からのハガキの束だった。
 潤の死後23年して、まことが書いている。
「彼は短い人生の長かった闘争の最後に狂気によって救済された」
辻潤だけはその風の中で石コロのように自分の重量を守った。私の知っているただ一人の信じられる生物だった」

 まことは、戦後「歴程」の同人になり表現活動。そして、ある山道具屋の広告画文をつくった。そこを仕事場(居候)にして山の雑誌に店の広告を描いた。病で倒れるまで続けた。
 駒村はこんなエピソードも紹介している。雑誌『アルプ』にまことを起用した串田孫一は裕福な家柄で高学歴、戦前の登山はそういう人たちの一種の「サロン」。まことの登山は山師仕込みだし、山は一時の住みか=居候。串田はまことの才能を評価したが、社交性には否定的。確かにまことは「世わたり上手」だったが、「都合のいい仲間」づくりはしなかった。旧友が語る。
「ありゃ、子どものころに身についちゃった『居候』の智恵」
 まことは、肝硬変で闘病中に自殺。

 命の始末を他人の手にゆだねなかったのだ。生きる選択肢は、あくまでも自分になければならなかった。生の自由を、彼はすんでのところで守ったのである。

 カバーの絵は、まことの「眠れるオトカム」。オトカムはMAKOTOを逆に読んだ。
(平野)
「器用」とか「不器用」とかの言葉で、二人の人生を語ってしまいそうになる。私はアホ読者。