週刊 奥の院 1.9
■ 郄田郁 『あい 永遠に在り』 角川春樹事務所 1600円+税
実在の人物を描く、著者初の歴史小説、ハードカバー。
関寛斎は房総の農民出身、蘭方医学を学び、阿波徳島藩の御典医になった。戊辰戦争で戦病者治療。44歳の時、家禄を返上して町医者に戻る。その彼が73歳にして北海道開拓を志す。物語は、その夫を支え続けた妻・あいの視点で描かれる。
私、ものすごくはしょって紹介している。佐倉順天堂で学び、故郷で開業、恩師の依頼で銚子に移る、土地の富豪・濱口梧陵の援助、長崎留学、コレラ治療、戦地での活動、何より「医は仁術」の実践などなど。
寛斎の高潔な人柄、彼を支える多くの人たち、激動する社会、夫婦・家族の愛を、郄田の筆で味わっていただきたい。
あいは5歳の時に見た情景をずっと憶えている。長く続いた飢饉がようやく終わろうとしていた天保10(1839)年の初冬。霧たちこめる林の中で親や姉たちを探していた。
……
霧の切れ目から、濃い緑の葉で覆われた梢が覗いた。
目を凝らしていると、徐々に霧は薄れ、樹形が顕になった。まだ若い樹なのだろう、すんなりと姿の良い山桃の樹だった。
あっ。
あいは、息を呑んで身を固くする。
その幹に、ひとりの少年が取り縋っているのだ。……
祝言の夜、寛斎が思い出を語る。あいが見たのは、ちょうどあの日に関家に養子にやって来た寛斎だった。山桃の木が亡き母の姿に見えたのだった。
寛斎を開拓に駆り立てたものは何か?
同門の医師・斎藤龍安が既に行っていた。
元徳島藩士たち入植して多くの犠牲者が出ていた。
七男又一が札幌農学校に進学した。又一が幼い頃、徳島は凶作。藁で作った餅を粗末に扱ったことを寛斎は厳しく叱った。
寛斎自身が貧しい農民出身であった。
夫婦は12人の子をもうけてが、既に半分を喪っていた。
「又一のところへ、様子を見に行こうと思う」
「ようございますねぇ。……」
(あいは北海道の地図を眺めながら待った。3ヵ月して帰宅。又一の働きぶり、周囲の人たちの支えを報告。土壌が砂で稲作に向かないと言う)
それならば、とあいは夫に微笑んでみせた。
「徳島の薩摩芋の、あの甘さ、滋味豊かな味わいは、砂地で育てるからこそ……」
「いやはや、あいは昔と少しも変わらぬな。禍に直面してもくじけず、物事の良い面を見つめて難事を乗り越えてしまうのだ」
明治32年の正月、寛斎は単身での北海道行きを決意。医師としての役割は果たした、新たな道に世の中の役に立ちたい、開拓に身を投じたい……。
「たとえ畳一畳の土地でも良い、この手で豊かな実りをもたらす土壌に変えることができれば、飢えからひとを救える。あとの世代に繋げることもできるだろう。残り少ない人生を賭ける意味がある。……」
連れ添って四十七年、寛斎は初めて、妻に両手をついて頭を下げた。
あいは黙って、庭に目をやった。
星影の下、山桃の樹はその輪郭をくっきりと見せている。枝を広げたその樹形に、郷里の山桃の姿が重なった。じっと目を凝らせば、その幹に取り縋って泣く少年の幻が見えるようだ。
祝言をあげた夜、あいは自身がこう祈ったことを思い返す。
――あなたの心に封じ込められている哀しみを、拭い去れますように
寂しさに凍える心を、暖め溶かす光になれますように
あいは、ゆっくりと唇を解く。
「連れていってくださいな、私も一緒に」
妻の言葉に、寛斎は驚いて顔を上げた。
山桃から目を離さずに、あいは夫に告げる。
「きっとお役に立ちますよ。田畑仕事は、先生よりも私の方が上手ですからね」
あい、と妻の名を呼ぶと、寛斎は顔を歪める。その双眸に盛り上がる涙を零すまい、寛斎は唇を引き結んで耐えた。……
小説では、まだ開拓の苦難が語られる。
山桃には雄木と雌木がある。縁組が決まって引き合わされたときのふたりの会話。
「これは雌木なんですね。近くに雄木があれば寂しくないのでしょうけれど」
「山桃の雄木の花粉は、風に乗って驚くほど遠くまで飛ぶのです」
寛斎は医学のために妻子を残して何度も遠くに行った。人生の最晩年を、妻は夫と一緒に行きたい(生きたい)と思ったのでありましょう。
(平野)