週刊 奥の院 12.3

■ 菅原孝雄 『本の透視図  その過去と未来』 国書刊行会 2500円+税

紙の本は消えるのか?
本の未来はどこにあるか?

ルネサンス人アルドゥス・マヌティウス以来の本の歴史を多面的な透視図として記述し、21世紀における紙の本と電子書籍の可能性を類例の無い深遠な視野のうちに捉え直す。……

 著者は1940年生まれ。紀伊國屋書店で洋書の広報・輸入、思潮社で編集、牧神社設立。倒産後、コンピュータの世界に。著書に、『デジタルメディアのつくりかた』、『狭間に立つ近代文学者たち』他。翻訳もあり。
目次
■はじめに――紙の本は消えるか  
第1部 紙と活字の本――その始まりと世紀ごとの発達
前景のグーテンベルグ 最初の出版人アルドゥス ポリフィリスの夢絵本 ボッカッチョの風刺短編 ジャーナリズムの元祖 アレッティーノのおしゃべり ……
第2部 電脳空間の本――コンピュータの中の本の登場
未来の本と変化への予感 本の消滅とSFの予言 本の代理人コンピュータ コンピュータと小型の本 紙を超える本の挑戦 仮想空間のテキスト誕生 ……
■おわりに――紙の本が消えるまえに
■編集者の極私的な回想

「はじめに」より。 
電子書籍襲来に日本の出版界は、「なぜ周章狼狽の醜態をみせたのか?」
 出版業界の体制を一気に瓦解させるパワーを秘めているから。

……出版社はまだいい。その周辺で出版業そのものを支えた書店・取次店の流通業界、加工・素材分野を担った印刷・製本・用紙業界などが、最終的に無用になって業界からはじき出される。

 出版社も、アマゾンやグーグルと著者が直取引したら無用になるかもしれない。
 業界は出版、印刷・製本、販売が一緒になってやってきた。日本では明治以来、世界では15世紀以来。

……その特徴は、本が誕生した時点から、さらに十九世紀の産業革命をへて拍車をかけ、大量生産、大量販売、大量消費を目指してきた。……いまになって心ある関係者は、成長・拡大路線こそ、みずからの体内に育ってきた病巣だと気付いたのではないか。

 書店でみると、多品種・大量生産のほころびは、大型書店の全国展開、地元の老舗・小型書店の廃業。大型店の撤退もある。
 大型書店の店頭には、売れ筋新刊、廉価本、読み捨ての雑誌……。
 

 スーパーマーケットの売り場に似て、高品質の高価な贅沢品は隅に追われ、影が薄い。大量消費を狙いながら、結果として無節操で、にぎやかな量販店や安売り店と化した。
 気が付けば、さらに商品の価値を貶める病気を併発していた。雨後に生える奇妙な菌類に似た「リサイクル・ブックストア」、片仮名で書けばもっともらしいが、実態はけばけばしい新古書量販店の出現である。

 さらに、出版業界は外部の大手企業――印刷会社の傘下に入る。
 

出版の主体性、思想の自由は守られるのか。それとも出版は、すでに主体性や思想や自由といった古い観念と無縁の立場に遁走したのか、追いやられたのか。

「文化」は安っぽく、薄っぺらな模倣で、軽い。だから、ただ利用された。「物欲」やら「強欲」に。その対極にあるのは「敬虔」。
 リルケが、「打ち震える言葉で、みずからの卑しさを告白」し、「控えめな清浄さをもって枝を伸ばし、花を開き」と書いたフラ・アンジェリコの絵画「受胎告知」。
 

密やかな透徹した人の心だけにゆるされたこの清浄や敬虔、出版文化はそれを文化の奥深くに秘めておくべきではなかったか。

http://www.gallery-aoki.com/mu_jyutaikokuti.html

 苦言だけではない。提言もある。
「感覚を刺激し、気休めに誘い、上辺の情報を大量に供給する目的」の書籍群は、「コストを削って、量販の弊害を免れたいなら、即座に電子ブックリーダーに身を任せたがいい」。
 デジタル化で弊害はあるだろうが、著者は、「悲観的である必要がない」と言う。

……紙の本が閲してきた五百年という歴史の重みである。この時間の集積は、科学がいくら新しい技術を生み出しても、そう簡単に破棄できるものではない。書籍はルネサンスの発生当時から一番使いやすいツールであり、究極のメディアであった。
 だからこそ、紙の書籍こそ、今後も延々とつづく本の原型であり、永遠の姿ということができる。

 
(平野)
電子書籍のことなど、私はわからない(わかろうとしていない)。【海】で扱うかどうか、たぶん手を出さないでしょう。紙の本と一緒に行くところまで行きましょう。
「編集者の極私的な回想」をもっと読みたい。新米の時、「牧神社」まだ活動していた。1冊くらいは家にあるはず。
 毎週火曜日は「月曜朝礼新刊案内」ですが、今晩事情があって準備できないので、水曜日になります。