週刊 奥の院 11・29

■ 松村昌家 編 『日本とヴィクトリア朝英国――交流のかたち』 大阪教育図書 2800円+税 
 2010年11月、名古屋大学で開催された、第10回日本ヴィクトリア朝文化研究学会のシンポジウム「ヴィクトリア朝イギリスと開化日本」での研究発表を基に、新論文も。
1 アームストロング砲――戊辰戦争への行程  松村
2 英国ヴィクトリア朝の日本趣味と明治芸術のラファエル前派受容――中世主義と装飾芸術を結び目として  山口惠理子
3 帝国・病気・医学――日英交流の一端  福田眞人
4 文化の基層をもとめて――A・B・ミットフォード  中島俊郎
5 イザベラ・バード漱石――異国見聞の西東  大田垣裕子

「交流」という言葉から、文化とか平和・親善を想像してしまうのだが、まず現われたのは 「兵器」だった。
 1862年第2回ロンドン万国博覧会で、日本使節団が強くひきつけられたのが「アームストロング砲」。クリミア戦争、アロウ戦争と続き、アメリカでは南北戦争の最中。この万博は新兵器産業の博覧会でもあった。
 翌年8月、「アームストロング」は鹿児島を砲撃、さらに翌年長州も襲われる。佐賀藩保有して、戊辰戦争、上野、会津攻撃で大きな役割を果たす。
「ロンドン万博」で日本が展示したのは、工芸品・手芸品・織物など。その技能とセンスは高く評価され、のちの日本画などヨーロッパでの「日本趣味」普及につながる。
 使節団のなかに現地の病院・障害者施設に注目した人物がいた。福沢諭吉と薩摩の医師・松本弘庵(寺島宗則)。当時英国の医学的課題は結核、福沢は万博会場近くの結核専門病院を見落としている。性病も重要な問題だった。病と文化交流についても論及。
 使節団は外交交渉もしていた。イギリス政府との協議で、江戸・大坂の開市と兵庫・新潟開港を68年1月に実施することに合意。その68年2月、開港した神戸居留地で発砲事件=「神戸事件」が起こる。備前藩の行列を外国人が横切ったことによるトラブル。イギリス外交官ミットフォードは問題の処理にあたった。備前藩士切腹に立会い、「ハラキリ」の模様を詳細にまとめた。その文章は新渡戸稲造の「武士道」にそのまま引用されている。彼は日本古来の文化に関心をもち、民話・昔話も収集している。
 使節団から離れる。78年5月、イギリス人女性イザベラ・バードが横浜に。「リアル・ジャパン」を探るべく、日光、新潟、山形、秋田、青森、北海道を旅する。その記録が『日本奥地紀行』。当時、欧米では世界周遊旅行が隆盛、日本もそのルートに組み込まれていた。イザベラはすでに旅行記作家として活躍していた。
 1冊の本で申し上げることは単純に過ぎましょうが、専門家の皆さんの研究だから、お許しを。この「交流」の歴史を見ても、日本が果たすべき役割、何となくわかる。
 執筆者のひとり、中島俊郎甲南大学教授は当店の顧客であり、アドバイザーであり、○み○メンバー。  
(平野)