週刊奥の院 11・18

■ 秋原勝二 『夜の話  百歳の作家、満洲日本語文学を書きついで』 SURE 2600円+税 
 80年にわたって書き続けてきた作家の短篇集。
 秋原は1913年福島生まれ、幼時に両親を亡くし、7歳の時に兄とともに満洲奉天の姉を頼る。満鉄育成学校から17歳で満鉄社員。32年、大連で創刊された文芸同人誌「作文」に加わる。同誌は42年にいったん終刊する。46年秋、一家は日本に引き揚げ。64年「作文」復刊。
 黒川創の解説(「発見」のはじまり)より。
 

秋原勝二は、現在の日本で旺盛に創作活動を続ける、最高齢の作家だろう。しかも、高齢にいたって一作ごとの達成は、さらに鋭く充実したものとなっている。にもかかわらず、この作家は、広く知られてこなかった。

 どうしてか? ……
 黒川は「偶然と必然、双方の要素がからんでいる」と。
 秋原が自作を発表するのは「作文」だけ。
 

 商業的なジャーナリズムの顔色をうかがいながら作品を書いていくより、まず自分は、後世に残しておきたいことを「作文」に書くのだと、差し迫った覚悟のようなものが、この人を占めてきた。その作家に、他の出版社などからも声がかかるかどうかは、いわば、副次的な「偶然」の要素だろう。
 とはいえ、彼は、自分たち「満洲日本人」という主題にこだわって、ほとんどの作品を書いてきた。それが自分自身の出発点であり、彼の作品も繰り返し占める意識も、ここから現われる。だが、日々の変化に洗われる文芸ジャーナリズムの世界では、とうにそうした時代への記憶も薄れている。その点では、秋原勝二に文芸ジャーナリズムとの共存を許さなかった現実には、むしろ「必然」の裏打ちがあったと言うべきかもしれないのだ。

 目次  
○孝行者(1932年) 東京・宝文館「青草」に投稿。満洲での幼年時代。中国の庶民たちから差し伸べられる救いの手。
○身の上話(1933年) 育成学校卒業後、満鉄に勤めだした頃の見聞。

○河や山(1941年)  ○帽子(1945年)  ○李という無頼漢(1965年)  ○冬の泉(1966年)  ○母親ヨシ(2009年)  ○飯田橋の夜半(2009年)
表題作品「夜の話」(1937年) 
友人の結婚式に大連から吉林に行くが、友人と行き違う。見かねた老人が家に泊めてくれる。老人が以前保護した男の手記の話に。
「私は時々、ぶらぶらと停車場あたりに出かけるのがすきでして……ただ、何というか、習慣のように、ほんとに時々、あの待合所を覗くのです。楽しみといいますか、一つの町に永く住むと、そんな気持ちになるのかもしれません。……」
 老人は日本人、20代半ばで大陸に渡り39年、吉林に来て10年。
「私も、マア、丁度、あなたらが、今、そんな時代かと思いますが、一つのやはり夢想家だったのですな。夢をみてる中(うち)、日がすぎてしまい、何一つ成功せず、その中、腰が落ちつかなくなり、ふらふらと一生を過ごしてしまい、人並みに一家を盛り立てるでもなく、よその土地で、こんな生恥をさらしているのです」

 黒川との対話。

(黒)これまで、小説を誰に向けて書いてこられましたか?
(秋)まず自分です。自分が最初の読者ですよ。次は友人、知人。ほんとうは満洲について多くの人に読んでもらいたけど、なかなか読んでもらえないから(笑)。未来の人のために記録して、将来の研究の手がかりをつくっておく。誰も読まなくてもいい、未来の誰かが探すときのために――手がかりになる材料を残しておきたい。僕でないとできないことがある。責任があるんです。

 満鉄の歴史・内情、中国の人との日常のつき合い、中国内の民族問題、敗戦後の混乱、引き揚げ……、秋原にしか書けないことの数々。
(平野)